人間科学学術院 教授 武田 尚子(たけだ・なおこ)
【プロフィール】東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了後、武蔵大学社会学部教授を経て、2013年4月より現職。専門は社会学(都市社会学、地域社会学、人口移動)。
メキシコ・オアハカ紀行
カカオ豆の芳香が室内に満ちている。ここはメキシコ中部の街、オアハカ。カカオの希少種「クリオロ」の原産地である。『チョコレートの世界史』(中公新書)を出したあとも、折にふれて、カカオゆかりの地を訪ねることを自分の小さな楽しみの一つにしてきた。
オアハカに伝わるカカオの利用方法は、ヨーロッパで発達したチョコレートの概念を覆す。オアハカ伝統のモーレ料理もその一つで、カカオ豆をシナモン、アーモンドなどと挽き合わせ、できたカカオ・ペーストに唐辛子などのスパイスやハーブを加え、肉料理などにそえていただく。
オアハカでは祝い事や伝統行事にモーレ料理は欠かせない。特に11月の「祖霊をしのぶ日」に、モーレはテーブルの主役になる。幾代にもわたる家族の来し方を振り返り、先人の軌跡をしのび、感謝と尊崇の気持ちをこめてモーレを作る。例えば日本では、お彼岸に小豆を炊いて、おはぎを作り、墓参りをする。小豆と同じような役割をはたしているのがカカオ豆である。
かつては、家の台所で女性たちがカカオを煎り、殻をむき、石のメターテ(まな板)で細かく砕いた。いつしか女性たちは村にあるトウモロコシの製粉所にカカオを持ち寄って挽くようになった。挽く順番を待ちながら、ボウルに入った互いの材料を比べ、料理のコツや、村のうわさに花を咲かせたという。家族のたどって来た道をモーレの「味」に再現し、祖霊の魂を呼び招く。この日には都会に出ていた家族たちも、生まれ故郷の村に帰る。家族の軌跡、親密な日々が、モーレの「味」に溶け込んでいる。
今は町にあるカカオ・ショップで自家製レシピを見せて、カカオを店のモリエンダ(磨砕機)で挽いてもらう。祭日の前には長い列ができる。私が通うカカオ・ショップには4台のモリエンダがあり、次から次へと挽かれて、カカオの香気のシャワーを浴びているかのようだ。日本では体験できないカカオのアロマに満ちた世界が広がる。挽きたてのカカオで作ったココアにオアハカ・パンが供されて、クロワッサンをカフェオレで浸して食べるように味わうことができる。芳醇(ほうじゅん)なカカオに導かれた異次元、これが私のオフである。