「われ何を知るや」の言葉で知られる思索家がいる。16世紀、フランス宗教戦争のさなか、一人故郷の城館にこもり人間についての探求を続け、随想をつづった。不寛容がさらなる不寛容を生み、正しさを装った狂気が氾濫する時代にあって、世間の名誉に背を向けて、内なる自己に向き合って淡々と人間の生き方に思いを巡らせた。
現代社会は、近代の価値観への疑念を垣間見せながらも、その実、金儲け主義ともいうべきやせ衰えた進歩思想に足を取られ、もがいているようである。金銭的合理主義が日々の雑報へと形を変えてわれわれの耳目をにぎわし、公人の金銭への執着が時局を揺るがす大事とされて人々の関心を呼ぶ。一面的な進歩への期待が容易にかなえられない現実に対する失望感は、侵すべからざる近代社会の原理すらも軽視して恥じない態度へとどこかでつながってゆくものかもしれない。
情報通信技術は、われわれを情報の大海の中に放り込む。選択は言うほど易くはなく、いつも情報過多と隣り合わせである。認識を行うためのいとまはどれほど残されているであろうか。人間が人間社会を省みるという営為は窒息の淵に瀕してはいまいか。
混迷の世を切り拓くのは、いつでも、正しい現状認識と新たな価値判断であるにちがいない。「われ何を知るや」の声を心の片隅にとどめたい。
(A.O.)
第975回