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コラム

平沼淑郎 受難期を支えた「調和の力」 ― 【外部から来た校長・学長】第3回

大学史資料センター助教 廣木 尚(ひろき・たかし)
平沼淑郎

平沼淑郎

1918年10月8日、1年以上空席だった早稲田大学学長職に理事・平沼淑郎が就任した。

その前年、学長の座をめぐって高田早苗派と天野為之派が繰り広げた、いわゆる早稲田騒動で、早稲田大学は創立以来の功労者である天野の他、永井柳太郎・村岡典嗣・波多野精一ら、将来を嘱望された多くの若手教員を失った。騒動後の大学執行部にとって、教職員や学生・校友の中にまで走った亀裂を修復することが最重要課題となった。学長空席という異常な状況の中、平沼は代表者理事として学長の職務を行い、晴れて学長に就任した後も「一種不可思議の統率力」(早稲田大学文学部教授・西村真次)を発揮して事態の収拾に尽力した。

平沼淑郎は1864年3月14日、美作国津山城下(現在の岡山県津山市)の津山藩士の家に生まれた。実弟には、後年、総理大臣を務める平沼騏一郎がいる。

1872年、東京の旧藩主家に仕えていた父に伴われ9歳で上京すると、思想家・西周や洋学者・箕作秋坪らの家塾から、東京英語学校、東京大学予備門を経て東京大学文学部へと進んだ。箕作の家塾「三叉学舎」では、後に大蔵大臣・東京市長を歴任する阪谷芳郎や東京帝国大学教授として西洋史を講じる箕作元八と机を並べた。

1884年に東大を卒業した平沼は、学生時代から交流のあったジャーナリスト・丸山作楽の忠愛社に入るも3年ほどで退社、教育界へと身を転じる。郷里・岡山県の師範学校、中学校を皮切りに、仙台の第二高等中学校教授、大阪市立大阪高等商業学校長等を歴任した。この間、1898年から1901年まで大阪市助役として市政にも参画している。

1921年の始業式で平沼学長が訓示する様子

1921年の始業式で平沼学長が訓示する様子

このような遍歴の末、1904年、平沼は早稲田大学に新設された商学科に招かれた。早稲田での平沼は、西洋商業史の講義や専門の社会経済史研究に打ち込む傍ら、商学部長、早稲田中学校長そして学長と、数多くの役職を受け持ち、精力的に校務に励んだ。平沼の学長就任式で、総長・大隈重信は平沼の「辛苦艱難(かんなん)」に満ちた半生に触れつつ、その経験に裏打ちされた彼の「調和の力、経営の才」をたたえている。「温厚篤実にして決して人と争わず、温乎(おんこ)として玉の如き性格」とは第4代総長・田中穂積の平沼評である。未曽有の混乱の時期に、その収拾にうってつけの平沼という存在があったことは、早稲田大学にとって不幸中の幸いだったといえるかもしれない。

早稲田にたどり着いて30年余りがたった1938年、平沼はその生涯を終えた。くしくも同じ年、高田早苗と天野為之もこの世を去っている。

11号館にある平沼の胸像

早稲田キャンパス11号館にある平沼の胸像

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