趣味と実益の一致する大学教員という職業に就いた私が、プロの将棋の観戦だけは飽きずに続いている。早稲田大学将棋部は名立たる強豪、本学出身のプロ棋士も多数に上る。アマ初段にすら程遠い棋力でも、なぜか観るのは楽しい。不世出の天才、羽生善治名人が、10代で棋界のトップに登り詰め、4半世紀にわたり君臨するのをずっと追いかけてきたからだろうか。
数年前の名人制度400年記念行事において、徳川家の末裔(まつえい)が、「創設者の家康公は戦いを以後は盤上にとどめ天下太平を願ったのだ」と述べたのには唸(うな)った。だが、盤上とはいえプロ棋士の対局は命を削る真剣勝負、しかも幼少の奨励会時代からの長期戦である。おまけに全棋士には名人を頂点とする実力順位までつけられる。これほど苛烈(かれつ)な世界に生きたいというのは、将棋には人生を賭けるだけの何かがある、ということだろう。「棋譜を汚さない」のも、それが後世へと残る彼らの生き様に他ならないからである。
現在はコンピューターソフトの棋力の向上が著しく、プロ棋士と同等かそれ以上になった。将棋も所詮(しょせん)はゲーム、瞬時に正解手を発見して勝てばよいというのなら、ソフトが人間を抜き去るのは時間の問題だ。けれども私は、人間同士の戦い、喜怒哀楽の表れる、何よりもミスの起きる、人間臭い将棋にこそ惹(ひ)かれる。結局のところ、将棋ではなく、棋士という人間を観たいのかもしれない。人生を通じ、時間をかけて正解があるかどうかも分からない問いに取り組み、「作品」を残す、実力だけがモノをいう世界。どこかに軽い既視感を覚えつつ。
(K)
第963回