Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

大西 祝(おおにし はじめ)文学部、もう一つの起源

大学史資料センター助手 廣木 尚(ひろき たかし)

写真①%20(3)1891 (明治24)年9月、早稲田大学の前身、東京専門学校の講師陣に新進の哲学者が加わった。大西祝である。まだ帝国大学の大学院生だった彼を早稲田に招いたのは坪内逍遙だという。

大西は1864(元治元)年、岡山城下西田町に生まれた。幼いころからキリスト教に親しみ、同志社英学校在学中に新島襄から洗礼を受けた。その後、東京大学(後の帝国大学)を大学院まで進み、倫理学を専攻した。

前年に文学科を開設したばかりの東京専門学校で、大西は哲学・倫理学・心理学・美学などの講義を一手に引き受け、逍遙とともにその礎を築いた。「苦しさうな、絞るやうな、鋭い、底力のある声」(五十嵐力「大西先生の回顧」『早稲田文学』1910年11月号)の語り口は、理路整然としながらも熱を帯び、多くの学生を魅了した。大西の薫陶を受けた学生には、金子馬治、島村抱月、綱島梁川(りょうせん)、朝河貫一、角田柳作らそうそうたる人物が並ぶ。

後進の教育にいそしむ一方、大西は言論活動にも精力的に取り組んだ。中でも内村鑑三不敬事件を発端とする「教育と宗教の衝突」論争では、帝大の指導教授・井上哲次郎を相手取り、果敢に国家主義批判の論陣を張った。

大西の教師生活は、1898年、文部省から欧州留学を命じられたことで終止符を打つ。そして、この早稲田での足掛け8年が、結果的に大西の研究・教育活動の大半を占めることとなった。留学先で寝食を忘れて研究に没頭した大西だったが、病を得て帰国。1900年11月に36歳の若さでこの世を去ったのである。新設予定の京都帝大文科大学の学長に内定していたが、その任に就くこともなかった。

大西の死後まもなく、全7巻からなる彼の全集が出版された。編さんに当たったのは金子、島村ら早稲田を代表する存在に成長していた教え子たちだった。大西の関係資料の多くは、現在、早稲田大学図書館に収められている。

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