Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

学生・大隈重信の志

社会科学総合学術院教授 島 善高(しま よしたか)

ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年、大隈は16歳であった。アメリカがどういう国であるのか、ペリーが乗ってきた巨大な軍艦はどうやって造るのか、藩校では教えていなかった。

次第に従来の教育に疑問を持つようになった大隈は、他の生徒たちと教育内容の是非を巡って大騒動を引き起こした。1855(安政2)年、18歳のときである。寄宿舎の2階から、1階の生徒めがけて火鉢を投げ落とすなど、夜を徹しての大げんか。その結果、大隈は張本人の一人として退学処分となった。

当時、藩校に新風を吹き込んでいた枝吉神陽を訪ねて今後のことを相談すると、神陽は藩校の教育のみならず、国家体制そのものを変革する必要があることを大隈に諭した。こうして次第に、先輩の江藤新平らと共に倒幕への道を歩むようになった。その後、弘道館へ復学する道もあったが、大隈はそれを拒否して蘭学寮に入った。朱子学よりも、むしろ西洋の学問を修めることが必要であると思ったからである。

修業年限2年を終えた1858(安政5)年秋、大隈は、藩主の命で船奉行となった。船頭のまねをするようで面白くはなかったが、藩主から叱られるのでしばらくは我慢していた。しかしとうとう我慢しきれず、父親が砲台の司令官をしていたので、自分も砲術の研究をして砲兵になりたいと釈明して、蘭学寮に戻ることを許された。かくして大隈は蘭学寮の教師となり、飛躍の足掛かりをつかんだのであった。

命じられるまま船奉行を続けていたならば、おそらく後の大隈はなく、また東京専門学校も誕生しなかったかもしれない。

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