Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

焼け跡に立つ─終戦直後の学生生活

大学史資料センター常勤嘱託 伊東 久智(いとう ひさのり)

1945年5月25日夜、早稲田大学の周辺を米軍機による爆撃が襲った。グランド坂から火の粉が川のように流れたというほどの猛火は、校舎の約3分の1 をのみ込んだ。

終戦後、かつての面影を失った「都の西北」に、戦地や兵営、あるいは勤労動員先などから、続々と学生たちが戻ってきた。一望遮るもののない焦土からは、夕焼けの富士が美しく眺められたという。彼らは、戦争からの解放感と、再び学ぶことができる喜びを満身に受け止めつつも、まずは食わねばならなかった。

ほとんどの「復員学生」にとって、アルバイトは生きていくために必要不可欠なものであった。しかも、戦前の主流であった家庭教師の口が激減したということもあり、土木工事の助手や倉庫整理など、肉体労働に従事する者が大半を占めることとなった。現在の学生にもおなじみの生活協同組合、その前身である学生共済会は、「学生々活に必要な物資並に諸施設の配給又は設置経営」を目的として、1946年5月に事業を開始した。その背景には、辛苦にあえぐ学生たちを助けたいという切実な思いがあった。

そうした困難な生活事情は、疎開先などから呼び戻された教職員たちにもいえたことで、図書館の地下室で館長が生活していたとか、法学部の屋根裏部屋で助手が新婚生活を送っていたとか、種々の「逸話」が伝わっている。

大学が授業を再開したのは、終戦の翌月のことであったが、教室には復員服を含むさまざまないでたちの学生が肩を並べた。彼らは、生活の不安や肉体の疲労を覚えながらも、教師の言葉に耳を傾ける中で、自国の、早稲田の、そして自らの再出発を実感していったに違いない。

1949年4月、新制早稲田大学が発足したとき、学部の数は全部で11。そのうち、5つの学部(第二政経・第二法・第二文・第二商・第二理工)が、夜間授業を行う勤労学生のための学部であった。

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