大学史資料センター非常勤嘱託 高木 重治(たかぎ しげはる)
1902 (明治35)年、東京専門学校は早稲田大学と改称した。以降、大学令による大学と認められる1920(大正9)年までの間に、学苑(がくえん)は学科や付属学校を新設し大学としての内実を整えていく。学苑の拡充に伴い、学生数は1902年196人にすぎなかったものが1912年709人、1922年2,345人と大幅な増加を遂げていく。
では、どのような学生が集ってきたのか。『早稲田大学百年史』は学苑に進学した者を見いだせない階層として華族・軍人・財界人を指摘し、学苑に来るのは農家の子弟が多いとしている。在学生・卒業生の府県別統計を見ると、全国各地から学生が集まっていることが分かる。
各地から集まってきた学生の生活を支える学生街が本格的に形成されるのもこの時期である。学苑周辺、特に鶴巻町には、下宿・食堂・喫茶店・バー・古本屋・映画館などが立ち並び、多くの学生がここで学生時代を過ごした。
日本社会党委員長を務めた鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう)も、1913年から1915年の2年間学苑で学び、学生街で生活した1人である。
愛知県蒲郡(がまごおり)の没落士族の子弟に生まれ、苦学生であった鈴木は、学費や生活費を稼ぐために「神田神保町の夜店に出て、バナヽ売や絵ハガキ売をやった。夜店ははじめは友達に見られてきまりが悪いものだが、これにはだん\/に馴れる。しかしバナナ売は『さあ、買つた\/』とどなることが私にはできなくて失敗した」というような学生生活を送った。それでも卒業間近には多年の宿望(しゅくぼう)であった下宿屋生活を楽しむことができ、「一生の想い出」となっていると回想している。こうした苦学の経験は、鈴木が社会問題に目を向けるきっかけともなった。
鈴木の回想からは、学費や生活費に苦労しながらも、学苑周辺に下宿し学生街で生活することが一種のステータスとなり、憧憬(どうけい)を持って見られていたことがうかがえる