大学史資料センター助教 檜皮 瑞樹 (ひわ みずき)

青年時代の太田(横浜開開港資料館所蔵)
大正期から戦後にかけて、中国との関係において活躍したジャーナリスト・太田宇之助。太田は1891年兵庫県揖保郡(いぼぐん)網干町(あぼしまち)(現在の姫路市)に生まれ、1917年7月、早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。卒業後は大阪朝日新聞社に入社、3カ月後には北京通信部勤務、1919年には上海特派員に転任するなど、中国大陸を主な活動の場とした。1929年9月には初代上海支局長に就任、ゾルゲ事件で有名な尾崎 秀実 (おざき ほつみ)は上海支局時代の部下であった。支局長時代には、1932年1月の上海事変や、同年4月の重光 葵(しげみつ まもる)遭難事件(上海天長節(てんちょうせつ)爆弾事件)に遭遇している。1932年には社内に新設された東亜問題調査会中国主査に任命されるなど、“中国通”ジャーナリストとして活躍した。
日中戦争の本格化後には、1940年7月に支那派遣軍総司令部嘱託、1943年には汪兆銘(おうちょうめい)政権(南京政府)の経済顧問・江蘇(こうそ)省政府経済顧問に招聘(しょうへい)されるなど、対中国政策に深く関与した。戦後は中国問題の評論家として活躍し、1986年、95歳で死去した。

1922年上海で孫文を囲んで〔前列中央太田、横浜開港資料館所蔵複製(部分)〕
彼の中国との関わりは在学中に始まる。学生時代に国木田修二(独歩の実弟)邸に同居していた太田は、王統(おうとう 中国の革命家)との知遇を得、在学中の1916年4月には王統からの要請で第三革命(1915年末に始まる袁世凱(えんせいがい)打倒の武装蜂起)に参加した。後年、当時の心境を「『中国の革命のため、死んでもよいではないか』と心に叫んだ」と振り返っている。上海に渡った太田は王統の秘書として活動し、同年5月に帰国した。
また、孫文(そんぶん)との親交は特派員時代に深まり、孫文の死まで続いた。直接の面会が限られていた孫文への取材を許された太田は、上海租界にあった孫文邸への“孫邸詣で”を続けた。また、1925年3月の孫文の死去に際して、その第一報を日本に送ったのも太田であった。