大学史資料センター助手 高橋 央 (たかはし あきら)
ソチオリンピックにおいて羽生 結弦選手が金メダルを獲得したことは記憶に新しいが、早稲田大学は夏季冬季のオリンピックに多くの選手を輩出してきた。早稲田大学の、そして日本人初の金メダリストが織田幹雄である。
織田は1905年広島県に生まれた。早稲田大学商学部在学中に開催された1928年の第9回アムステルダムオリンピックの三段跳に出場し、8月2日、15m21cmの記録で見事優勝、金メダリストに輝いた。しかしこの金メダル獲得は、織田の真摯(しんし)でかつ合理的な研究と練習のたまものであった。
織田は国内外の跳躍競技に関する文献や新聞記事、雑誌を収集し、最新の技術理論の吸収に努めていた。理論を吸収すれば直ちに練習で実践し、丹念な記録をつけた(写真①)。こうして自身の技術を進歩させていったのである。
また、早稲田大学競走部において、沖田芳夫、南部忠平、西田修平といった仲間と出会ったことが織田を支えたともいえる(写真②)。沖田は広島第一中学校時代からの親友で主将であった。南部は織田と共にアムステルダム、そして1932年のロサンゼルスオリンピックに出場、ロサンゼルスでは見事三段跳で金メダルを獲得した。西田は後輩として競走部に入部、織田の指導を受けながら跳躍技術の向上に励んだ。西田の練習の成果はロサンゼルス、そして1936年のベルリンオリンピックにおける、2大会連続の棒高跳銀メダルの獲得として結実した。このような部内における切磋琢く磨(せっさたくま)と彼らの友情が、お互いの好成績につながったといえる。
織田は後年、次のような言葉を述べている。「私は決して天才的な競技者ではなかった。私を強くしたのは、人一倍の努力であった」 (織田幹雄『わが陸上人生』)。己に慢心しないたゆまぬ努力と友人たちとの出会いが、織田幹雄という優れたアスリートの支えであった。