大学史資料センター助手 伊東 久智 (いとう ひさのり)
1918年の初夏、中国の広東(かんとん)省海豊(かいほう)県からやって来た一人の若者が、早稲田大学の門をくぐった。その人物の名は彭湃(1896 ~1929)。デモクラシーの思潮が一世を風靡(ふうび)していたその時代、早稲田で学んだ3年という月日は、彼にとって決定的な意味を持ったといっても過言ではない。
翌年の秋、学内では和田 巌(わだ いわお)・浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう)・三宅 正一(みやけ しょういち)らの学生が中心となり、「最も合理的なる新社会を建設」することをうたう思想団体、建設者同盟が結成された。デモクラシーから社会主義へと、最新の思想を渉猟 (しょうりょう)しながら、彼らは早くから農村に着目し、農村問題についての調査・研究に取り組んだ。故国のために広く知識を求めていた彭湃が、その活動を知り、加入を申し込むまでにはさほど時間はかからなかった。
建設者同盟の同人たちは、「背の高いおっとりした」風貌の彭湃が、「初夏の陽の当る縁に座って三、四人の同人に中国事情を語っていた姿」を戦後に至るまで記憶している。以下に記すその後の進路が、彼らに強い印象を残したからでもあっただろう。
卒業後、故郷に戻った彭湃は、大地主であった実家の土地を農民たちに分配したり、農会(農民組合)を組織したりするなど、中国農民運動の先駆者へと成長していった。その軌跡は、日本の農民組合運動に貢献するところのあった建設者同盟出身者のそれとも重なるところがある。
1923年、かつて共に理想を語り合った和田 巌の夭折(ようせつ)を知った彭湃は、「なんという痛恨事!」と同志に書き送って哀悼の意を表したというが、その彼もまた、中国共産党の闘士として、内戦の最中の1929年8月30日、捕縛・銃殺された。まだ33歳という若さであった。