大学史資料センター非常勤嘱託 木下 恵太 (きのした けいた)
早稲田大学では1899(明治32)年以降、清国人留学生を受け入れてきた。これは日本人学生と同じ環境で高等教育を授けるものであった。日露戦争のさなか多くの清国人留学生が来日するようになると、早稲田大学学監(校長の補佐役)の高田 早苗(たかた さなえ)は、そうした学生のために中等教育部門を設立することにした。そして、教育事情の視察のため、中国学の教員青柳 篤恒(あおやぎ あつつね)とともに、1905(明治38)年3月に上海に渡航した。
高田らは各地で要人と面談して回り、武昌では南方の実力者 張 之洞(ちょう しどう)に、天津では北方の実力者 袁 世凱(えん せいがい)に面会した。張は「日本に学生を出せば危険思想にかぶれないか」と憂えたが、袁はこのことを聞くと大笑いし、「部下全員に日本見物をさせたい」と述べたという。また、高田は中国の史跡や文物なども見て回り、その壮大さに感嘆し、20通にわたり感想を夫人に書き送った。一方で、科挙(儒学の経典を中心とした任官資格試験)の試験場については、「教育の方針が国家の盛衰に大関係のあることをつくづく感じた」とも、後に述べている。
3カ月の旅行から帰国した高田は、青柳を教務主任に据えて学則や組織を編成させた。青柳は何度も下宿に清国人留学生を訪ね、その意見を聴取するという熱心さであった。早稲田に理工科がまだなかった時代に師範科物理化学科を設置し、実験室を設けたのも意欲的である。
こうして、1905年9月に予科と本科の3年の課程、および研究科をもつ「清国留学生部」が開校した。入学した清国人は不断に1000名ないし1500名を数えたという。
後のこと、早稲田大学が理工科(現在の三理工学部)を創設した際、中国に渡った青柳に多くの清国皇族・大官たちが寄付を寄せた。それは「清国留学生部」設立の縁によるものであったと、大学のある関係者は記録している。