Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

アジアからの“留学生”

大学史資料センター助教 檜皮 瑞樹 (ひわ みずき)
高田早苗・塩澤昌貞と清国留学生(1906年頃)

高田早苗・塩澤昌貞と清国留学生(1906年頃)

早稲田大学は戦前期からアジアを中心として多くの“留学生”を受け入れてきた。

学苑を卒業した最初の“留学生”は、朝鮮半島出身の洪 奭鉉(ホン ソクヒョン)である。1897年に東京専門学校(早稲田大学の前身)邦語政治科を卒業した洪は、免費生として学費を免除され学苑で学んだ。在学中から朝鮮人留学生親睦会の指導者として活躍し、帰国後は官立漢城高等学校長などの要職を歴任した。洪 奭鉉以外にも、明治30年代には8名の朝鮮人学生が学苑を卒業している。また、1915年には林 時珍(りん じちん)ら3名の台湾人が初めて学苑を卒業した。

一方、中国大陸からの“留学生”は、清国より派遣され、1899年に入学した唐 宝鍔(とう ほうがん)と しょう 翼きの2名と、銭 恂(せん じゅん)が仲介した3名の学生が最初である(3名の詳細は不明)。また、学苑は清国からの留学生を積極的に受け入れるため、1905年に清国留学生部を創設した。1910年に廃止されるわずか5年の間に2,000名余の学生が学苑で学んだ。

1910年の“韓国”併合以後、朝鮮半島からの“留学生”は急増した。台湾からの学生も含めて、彼らは“外地学生”として位置付けられ、厳密な意味での“留学生”としては扱われなかった。さらに、植民地からの留学には、内地と植民地との教育システムの不連続、日本政府や総督府による渡航制限などの困難が伴っていた。そのような状況下でも、多くの“留学生”が学苑で学び、帰国後にそれぞれの“母国”で活躍した。

早大ウリ同窓会卒業生送別記念(1936年2月)

早大ウリ同窓会卒業生送別記念(1936年2月)

1919年の三・一独立運動で独立宣言文を起草した崔 南善(チェ ナムソン)、東亜日報や高麗大学の創設者であり李 承晩(イ スンマン)政権で大韓民国副統領を務めた金 性洙(キム ソンス)、中国共産党創設メンバーである李 大釗(り たいしょう)・陳 独秀(ちん どくしゅう)、戦後の中国において対日外交で活躍した廖 承志(りょう しょうし)、台湾における社会主義運動の先駆者である王 敏川(おう びんせん)などが挙げられる。

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