大学史資料センター 助手 伊東 久智
大学の顔である正門。しかし現在、その正門から登校する学生は必ずしも多くはないのではなかろうか。地下鉄早稲田駅を降りて8号館脇の南門から、あるいは 高田馬場駅からバスや徒歩で西門から、という学生も少なくないだろう。ではなぜ、現在の位置に正門は開かれたのか。そこにもやはり歴史がある。
明治から大正にかけての時代、正門は現在の南門の辺りに置かれ、そこから学内に向かっては恩賜記念館、学外に向かっては繁華な学生街を形成していた鶴巻町 通りを望むことができた【写真①】。その先を行けば、山の手の一大繁華街・神楽坂というわけである。いわば当時の正門は、人の流れに棹さしていた。
新図書館(現2号館)が竣工した1925(大正14)年、正門もまた新装され、現在の通用門の辺りに移動した。4本の角柱の間に4枚の鉄扉がはめ込まれ、 中央の2枚は観音開きという仕様である【写真②】。いかにも仰々しい。下って現在の正門が完成したのは1935(昭和10)年。柱も扉も大胆なまでに一掃 されたその姿は、もはや門であって門ではなく、自由な大学の象徴へと生まれ変わった【写真③】。
そして戦後――。「正門から伸びている 限りの地域には街らしい街がない」(今和次郎「早稲田界隈の今昔」『早稲田学報』1952年5月号)と嘆かれたように、戦災により鶴巻町一帯は壊滅的な損 害を被り、人々の流れは早稲田通り方面へとまさに正反対の転回を遂げることとなった。
いっそのこと、正門を移動してはどうか―そうした 意見も確かに存在した。しかし現在の正門は、それに先だって建造された大隈記念講堂(1927年)、大隈重信像(1932年に大礼服姿から総長ガウン姿と なった)と渾然一体のものとして定められている。そう、正門とは家屋における大黒柱のごとく、キャンパス全体の調和を保つ要なのである。安易に移動させよ うものなら、大隈さんから、「正門が見えなくなった」との小言を頂きそうではないか。