Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

早稲田の学生街④ 都電のある風景

大学史資料センター 助手
伊東  久智

東京専門学校が早稲田大学と名を改めた1902年頃においてす ら、大学の周辺は「全く茗荷畑の連続で、一般人の通行など思いもよらなかった」という。そのため学生たちの通学手段は、そのほとんどが「親伝来の膝栗毛」、すなわち徒歩に限られていた(安蔵吉次郎「早稲田を繞る交通界の今昔」『早稲田学報』1928年5月号)。“都の西北”はそれほど辺鄙であった。

【写真①】早稲田車庫より早稲田大学を望む(1967年3月) (C)大正出版『続・都電百景百話』より

【写真①】早稲田車庫より早稲田大学を望む(1967年3月) (C)大正出版『続・都電百景百話』より

日露戦争後、東京市電(1943年に都電となる)の路線網は瞬く間に全市を覆っていったが、それが通学手段として広く認知されるようになったのは、 1918年7月に早稲田車庫(現在の都営バス営業所の辺り)【写真①】が完成し、早稲田終点までレールが延長されてからのことである。東京中心部と直結す る市電の開通は、とりわけ勤労夜間学生にとっては福音であった。

関東大震災後、東京の公共交通機関はさらなる発展を遂げ、1927年には西武鉄道が高田馬場まで、30年には王子電気軌道(1942年に市電に編入、現在 の都電荒川線の前身)が早稲田までそれぞれ延長されたことにより、通学の便はさらに向上した。その過程は、従来大学を取り巻く下宿街に密集していた学生た ちが、少しずつ拡散してゆく一種の「人口移動」の過程でもあった。

そして戦後、都電は全盛時代を迎え、早稲田には茅場町から大手町や飯田橋などを経由してくる第15系統【写真②】と、旧王電路線である第32系統、さらには厩橋から上野広小路、本郷三丁目などを経由してくる第39系統【写真③】とが乗り入れた。

少し歩けば、そこにチンチンと小気味よいベルを鳴らしながら都電が走っている。そうしたごくありふれた風景が一変したのは、1960年代に入ってからのこ とである。東京オリンピックの開催を控えた道路拡張やモータリゼーションの進展は、都電を首都交通の邪魔者へと追いやった。新旧の“主役”交代を象徴する かのように、地下鉄早稲田駅の開業から3年後の1967年、都電の第一次統廃合が行われて、学生たちの通学手段・通学範囲は多様化・広域化の一途を辿りな がら現在へと至っている。

1284号 2012年7月19日掲載

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