現在、理工学術院が使用している西早稲田キャンパスのシンボルとも言うべき51号館は、高さ70メートル余を誇り、建設当時においては日本屈指の超高層建築であった。この新キャンパスがその全容を整えたのは1967年11月。大学創立80周年記念事業の目玉であった。
しかしその一帯の土地が長らく軍用地として使用されていたという事実を知る人は今や少ない。歴史をさかのぼれば、陸軍の史料には1873年6月に尾州徳川家が所有していたこの土地を、射的練兵場などを設置するために兵学寮に交付する旨の記載がある。以降、この土地は陸軍用地として終戦に至るまで使用され、戦後は米国駐留軍が接収。その解除は実に1955年のことであった。
本学の前身である東京専門学校が創設された1882年には、この用地に近衛騎兵連隊の射撃場が建設され、「戸山ヶ原射撃場」などと呼ばれた。しかしこの射撃場、近隣住民にとっては大きな脅威であったことも史料から知れる。1925年に住民たちは射撃場の移転を求める請願書を提出しているが、そこには「誤発流弾は屡々附近の住宅を襲ひ或は庭園に或は道路に落下して家屋を毀損し又は児童通行人等を殺傷したる実例頻々たり」といった切実な訴えが記されている。
そこで昭和初年、陸軍は射撃場全体を鉄筋コンクリート造りのトンネルでおおうという被害防止策を講じることとなった。それは巨大な土管を並べて埋めたような外見で、「東洋一」を誇る頑強な構造を備えていた。合計7本あった「土管」の1本1本の全長は300メートルにも及んだ。
米軍の接収を解除された後、この大久保一帯の土地は国有地となり、やがて民間に払い下げられることとなった。手を挙げたのは早稲田大学のみではなかったが、メイン・キャンパスに近接するという条件もあって、大学は力を尽くしてその獲得に努めた。空気を切り裂く弾丸の音が、科学技術の未来を担う若者たちの笑い声に変わった時、周囲から取り残されていたこの土地にも、ようやく「戦後」が訪れたと言えるのかもしれない。
1265号 2011年12月8日掲載