大隈重信は、1874(明治7)年早稲田に別宅を購入、1882(明治15)年には別宅に隣接する土地を東京専門学校開設のために入手した。大隈は、雉子橋(現在の九段下)にも本宅を有していたが、学校開校以後は早稲田を主な活動拠点とした。1884(明治17)年に本邸を早稲田に移し、1887(明治20)年には雉子橋の敷地を渋沢栄一に売却したことで、早稲田の別邸が大隈邸となった。この大隈邸は広大な庭園を併設しており、外国からの貴賓や、在校生・卒業生が多く訪ねた。
大隈邸は、1901(明治34)年に一度焼失したが、翌年に再建した。1914(大正3)年の第二次大隈内閣時代には、大隈邸で対独開戦の閣議が開かれた。また、多趣味であった大隈は、庭園内の温室で蘭や菊、メロンの栽培も行っていた。
1922(大正11)年に大隈が逝去すると大隈邸・庭園は遺族から大学へ寄附され、大隈会館と改称された。この大隈会館は、教職員の懇談や会議の場、学生の集会場として利用された。また、庭園は一般にも入園料20銭で公開され、本学創立に尽力した「早稲田四尊」の一人、市島謙吉の回顧によれば多い日には数千人の来場者があったという。大隈会館の内部には、大隈邸時代の調度品がほぼそのまま保存されており、生前の大隈を偲ぶことが出来た。さらに、1927(昭和2)年に大隈講堂が建設されたが、その敷地は庭園の一部を利用したものであった。
しかし、1945(昭和20)年5月の空襲によって大隈会館は全焼し、庭園も甚大な被害を受けた。この空襲では、大学のほとんどの建築物が焼失し、東京専門学校以来の学苑の記憶が失われたといっても過言ではない。
大隈会館の復旧は、資金難のために先送りにされていたが、卒業生の前川喜作氏の全面的資金援助によって、1950(昭和25)年に再建された。しかし、この二代目大隈会館も1991(平成3)年に解体された。