大学史資料センター非常勤嘱託 教育・総合科学学術院非常勤講師 望月 雅士
大隈講堂の脇、ガーデンハウスへと向かう梢に覆われた歩道の一角に「平和祈念碑」がある。日中戦争から太平洋戦争にかけて戦没した早稲田大学の教職員や在学生、校友らを悼む碑である。この碑は敗戦から45年が経った1990年の創立記念日に建てられたもので、碑の裏面には次の歌が刻み込まれている。
征く人のゆき果てし校庭に音絶えて
木の葉舞うなり黄にかがやきて
詠み人は太平洋戦争中に文学部の女子学生だった堂園(のち宇津宮)満枝。この歌は、空襲警報が日々けたたましく鳴り響く、1944年秋に詠まれたものという。イチョウの葉が色鮮やかに舞う早稲田の杜からは、すでに学徒出陣により学生の姿が消え、その美しさを愉しむ者は誰もいない。この歌には、戦時下の早稲田の光景が32文字で見事に描かれている。
祈念碑の台座の下には、戦没者の名簿が収められている。その名簿とほぼ同様のものを、『早稲田大学百年史』第4巻(1992年刊行)の「レクイエム」の章で見ることができる。110ページにわたって収録された4581名の戦没者名簿を繰ると、その戦死の日時が敗戦直前の1944年と45年に集中していることに気がつく。そして戦没地は、日本が戦線を拡大した全域におよんでいる。レイテ島、ニューギニア、沖縄、バシー海峡、ルソン島、ビルマ、サイパン、硫黄島、山西省…戦没地のひとつひとつをその戦死日時と重ねあわせてみていくと、彼らが死を前に直面した最後の戦いが目に浮かんでくる。
名簿には戦没者の氏名だけが記され、戦死した場所も日時も、何も記載されていないケースが散見される。戦死したことだけははっきりしているが、いつ、どこで戦死したのかわからないのである。それどころか、この名簿に載せられていない戦没者も少なくなく、名簿未記載者の情報が今日でも寄せられている。現在、判明している戦没者数は4736名。敗戦から66年経った今日において、改めて戦没者の調査が必要となっており、誰がいつ、どこで戦死したのかを可能な限り明らかにしていくことが求められている。「戦後」を生きる私たちの課題は、未だ終わっていないのである。