Waseda Weekly早稲田ウィークリー

キャリアコンパス

映画監督 篠田正浩 挫折が一番人間を鍛える

「松竹ヌーベルヴァーグのリーダー」と評され、数々の名作を精力的に世に送り出してきた篠田正浩監督。その篠田監督が、学生時代に箱根駅伝の名ランナーだったことは案外知られていない。
学生時代のこと、映画の話、そして34本目、ご自身の最後の作品としてまもなく公開される「スパイ・ゾルゲ」について熱く語っていただいた。

■篠田正浩(しのだ・まさひろ)  1931年岐阜県生まれ。1953年第一文学部卒業、同年松竹撮影所に入社。「恋の片道切符」で監督デビュー。1966年独立後、翌年奥様であり女優の岩下志麻さんと共に表現社を設立。「心中天網島」、「沈黙」、「瀬戸内少年野球団」、「少年時代」等の作品を発表。国内外から高い評価を受ける。2003年6月14日から、全国東宝系にて「スパイ・ゾルゲ」が公開される。今後、本学国際情報通信研究科と共に、本庄において映画界の若手育成に力を注ぐ予定。

<早稲田で出会ったパイオニア>
 僕らが少年の時、日本は、独自の文化・伝統のある純粋な島国だったの。海の向こうの西洋音楽同様、当然のようにスポーツにも惹かれた。これまで日本には、武蔵がやるような剣術はあったけど、百走る、区切って走るという文化、つまりスポーツという概念がなかった。スポーツはギリシア文化の延長なんです。自分の肉体だけでやれる陸上は、ギリシアやローマの文化につながるので、僕は陸上競技を選んだ。

高校の時、四百走で岐阜県の一番になって国体に出たんだけど、予選で敗退。もう、悔しくてねえ(笑)。「畜生、絶対勝ってやる」と、大学で文学の道とともに、陸上も続けようと思って、志望を京都大学から、早稲田の文学部に変えたんです。

そして、ベルリン五輪の銀メダリストの西田修平監督、銅メダリストの大江季雄参与、何より、コーチの中村清さんという素晴らしい指導者に出会った。

あるとき中村コーチが、僕ら中距離の選手を集めてこう言った。「これから世界を狙う。周りを見てみろ。西田修平監督をはじめ、南部忠平さん、織田幹雄さん等世界に名を残す選手ばかりだ。早稲田の陸上が世界を目指さないわけがない。君らにも望みはある。中距離では世界記録に届かないけれど、そのスピードで五千走ると世界記録だ」と(笑)。これが三十年後、あの瀬古利彦選手を生んだ中村清コーチの、最初の長距離スピード練習だったんです。世の中の見方はこういう風に変えられるんだ、こういう人がパイオニアになるのかと、感激しました。

当時のラジカルな時代思想よりも、グラウンドの中村コーチの方が、よっぽど過激だった。山手線内の土地をひたすら走りまわされたよ。そのかいあって、僕が二区の走者に抜擢された箱根駅伝では、早稲田は下馬評をもろともせず、二位になったんです。

<走りながら物を見ることはモーションピクチャーだ!>
 僕は映画監督をしていますけど、学生時代、映画はただの一般教養の一つでした。けれど、僕は陸上の練習中、走りながら物を見ることは、モーションピクチャーだと気付いたんです。瞬間しか見えないから、景色がシャッターのようにどんどん入ってきた。

印象的だったのは、僕らを追い越していったアメ車の中の、アメリカ人。一九五〇年代初頭のアメリカの繁栄ぶりを、象徴するように走るシボレーや、フォードの車内で、女性がタバコを吸いながら乗っていたとか、タバコを吸っている女性のルージュとタバコを持っている指のマニキュアが同じ色だとか、パッと見えるの。ほんとに一瞬だよね。

僕はアメリカの女性が、タバコを吸っていることに興味を持った。アメリカでは大戦中、女性がどんどん社会進出したの。それで、男性社会に支配されずに自分の生き方を選びだした。男が吸うタバコを女も吸う。そういった自立のシグナルのように感じて、「アメリカではこれから離婚が増えるな、その後日本も続くのかな」などと考えたりして。そんな、現代のジェンダーの問題に通じる現象が、モーションピクチャーとして視覚に入ってきたんです。

人間の視覚なんていい加減なもので、静止画をあまり認識しない。視覚は動いたものを見る、動くものは見られるんですよ。僕は陸上競技をやっていなければ、この原理を発見せず、きっと映画監督にもなれはしなかった。だから、瀬古選手のようにはなれなかったけど、中村コーチには申し訳が立つと思う(笑)。

<芸術におけるスタイルを確立する苦しみ>
僕は近松門左衛門をはじめ、中世から近世の日本芸能史が、死者を扱っていることに興味を持っているんです。

少年時代に、日本は戦争に負け、広島、長崎は今の言葉で言うとグラウンド・ゼロだった。けれど、近松の少年期だった過去にも、島原の乱など、相当な大量虐殺の歴史があった。その殺戮の光景が、さまざまな心中事件等の血にまみれたドラマを、近松に書かせたんだと思う。それは僕の戦争体験にもつながる。近松の『曽根崎心中』を読んだとき、「ああ、俺の中で、戦争に負けいかに死ぬか、が精神を形成していたんだ」ということを思い知らされた。死者を扱う歌舞伎や浄瑠璃が、僕にとって古典ではなく、現代劇になっているんです。

また、近松は自分の目の前で起きた光景を、古典的な浄瑠璃のスタイルに変えたんですよ。その同じ手法を、現代の自分がやってるわけです。表現というのは、一つのスタイルを生まないと表現として永遠性がなくなる。芸術というのは、スタイルを確立するという地獄の苦しみに耐えなければならない。それはきりがないんですよ。

映画におけるスタイルっていう点でいうと小津安二郎。自分の話法やカメラポジションなどにおいて、徹頭徹尾信ずる手法で貫いていた。僕が助監督の時、目の前でそんな小津安二郎や黒澤明が撮っていたわけ。僕も自分のスタイルを確立させるために、絶対に彼らの耕した土地には入るまいと決めていました。

<「スパイ・ゾルゲ」にはCG技術を駆使! CGが生む新たな世界>
なぜモナリザが神秘的な微笑を浮かべているのか考えたんですよ。それは、背景に関係がある。背景はものすごく非現実的な山水画です。そこに、モナリザの手がある。その手は、現実どおりのバランスで、それまでの絵画には見られないほど大きく描かれている。ルネサンス時期に、人間が自身を初めて発見した絵なんです。そのリアルなモナリザと、後ろの背景と合わせる、つまり合成させると、そこにはものすごい異次元、新しい世界が見える。神秘な「モナリザの微笑」が生まれたのだ。この世界は文学では表現できないと僕は思った。でも、映画の世界なら表現できる。

「スパイ・ゾルゲ」では、昭和初期のリアルさを出すためには膨大な労力を必要としました。例えば、昭和八年銀座四丁目の服部時計店(今の銀座和光)の周辺に、市電が8両、車が40台、人が900人動いています。このシーン、全部CG。ぜひ、映画を観て確かめてください。

<若者を恐れる理由、求める理由>
これまで若者から得られるものはたくさんあって、現場で彼らのアイデアを採用する等、仲良くやってきています。

けれど、僕は若い人に対してある種の恐れがある。若者はキレるから怖い、ではないんです。同じ時間にいるけれど、僕には「終息していく時間」で、若者には「体験していく時間」。その若者の時間を、僕は死の世界からしか見られないんですよ。だから、彼らは僕の死の影を映す鏡であると思い、ときどき絶体絶命の気分になる。自分の中にある死と対話なんかできっこないもの。でも、若者とは「生と死」という立場で話をすることができる。そういう意味で若い人たちといるのはとてもエキサイティングで不可欠なんです。

<遊び暮らしても、さまよっても、同時に自分を追い詰める勇気が必要。
そして、教室にいなさい!>

学生時代に、自分の内部から突き動かされて、何かしようという衝動が出ないときは、遊び暮らせばいい。また、自分にどれくらい才能があるのか分からず、鬱屈するようなときは、ひたすらさまよえばいい。
でも同時に、自分を追い詰める勇気が必要。それは若い時にしかできないものだから。スウィフトの『ガリバー旅行記』や、『アラビアのローレンス』等の文学を本気で読み、彼らがどんなさまよい方をしたのか知ることをお勧めします。一人でさまようことで得られる経験は、エリアが小さい。だから、そこで文学が力を発揮するんだ。学生は文学をやるか、論理的思考力のために数学をやるかして、頭を鍛えた方がいいですよね。

特に新入生は、早稲田に入学して、順当な人生の始まりだと思っているでしょう。けれど、これから裏切り、挫折、絶望を味わいます。でも、それが一番人間を鍛える。  僕も大学でもそれまでのように、すべてを教えられると思っていた。だが違った。その絶望の挙句、自分から学ばないと、仕掛けないといけないと悟ったんだけど、時すでに遅く四年生。その後悔から、大学を出てから真剣に学問したね。

でもね、これだけは言っておきたい。とにかく教室にいなさい。ときどき天啓のひらめくような言葉に遭遇する。僕にとってそれは、亡くなった河竹繁俊先生から教わった近松の虚実皮膜論だった。虚実皮膜論とは、簡単に言うと、本当の真実とは、嘘と現実の薄い皮膜の中にあるというもの。この近松の言葉を教わったとき、体中電気に打たれた感じになった。

そういう言葉は、先生からか友人からか、どこから来るのか分からない。けれど、教室には確かにそういう言葉があって、あるとき、あなたの精神を貫く。早稲田大学はその一瞬の閃光を発する能力を有する大学だと思います。

 「スパイ・ゾルゲ」完成後の関係者を集めた上映会の挨拶で、「『スパイ・ゾルゲ』は十数年の間、暖めてきた映画です。見終わって『つまらない』と言った奴は殺します(笑)」と、場を沸かせた篠田監督。その笑顔には、強いこだわりとともに、絶対の自信がみなぎっていた。
 

※お詫びと訂正
『第7回オール早稲田文化週間』パンフレットの篠田監督の略歴記載に誤りがありました。お詫びし、訂正します。
(誤)1933年第一文学部卒業
(正)1953年第一文学部卒業 

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