Waseda Weekly早稲田ウィークリー

キャリアコンパス

プロ野球選手 小宮山 悟

■こみやま・さとる  1965年千葉県生まれ。芝浦工業大学付属柏高等学校卒業後、2年間の浪人生活を経て、本学教育学部教育学科体育学専修へ進学。六大学リーグ戦での通算成績は20勝10敗。140km近い速球はリーグ1を誇り、最終学年の89年には日米大学野球のメンバーに選ばれる。90年ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズ(当時はロッテ・オリオンズ)に入団。ルーキーシーズンから活躍し、93年史上初の開幕から6連続完投勝利。97年最優秀防御率達成。2000年から横浜ベイスターズへ移籍。セ・リーグ2年目の今年は、チームトップの12勝を挙げる大活躍。シーズンオフに、長年の夢”メジャー”をかなえるために、FA宣言。ニューヨーク・メッツと契約した。「年俸は4分の1にダウンするが、一度だけの人生に悔いは残したくない」

小宮山悟投手は、「投げる精密機械」、「ミスターコントロール」等の異名のとおり、抜群のコントロールと多彩な球種を操る球界随一の技巧派投手。千葉ロッテマリーンズのエースとして10年、横浜ベイスターズに移籍してからも先発ローテーションの一角としてチーム最多勝を挙げるなど、チームを支えてきた。そして、今シーズンオフ、FA宣言。「イチか、バチか」夢の大リーグ入りを目指した結果、来季はニューヨーク・メッツとの契約が決まった。その直前に、取材した。

「神宮で、早慶戦で投げたい!」
二浪して合格。掲示板に受験番号を見つけるや、安部寮へ!

根が単純なもんで。高校2年生の時、テレビで早慶戦の中継を見たんです。その時は優勝したシーズンで、その前に早稲田は法政から勝ち点を挙げてるんだけど、法政はメンバーに甲子園経験者ばかり揃えているのに対し、早稲田はほとんどいないチームで、すごいなって思って。そうしたら早慶戦で早稲田が勝って優勝して、テレビでだけど早慶戦のスゴさを感じて、「絶対にあそこで投げたい!」と単純にそう考えた。それで、進路指導の先生に「早稲田と慶應とどっちがいいか」と相談に行ったら、「お前は慶應はガラじゃないよ、誰が見ても早稲田だ」って。以来、高2の秋から合格するまで、僕は早稲田に行くんだ、なんとか入りたいという気持ちだけで過ごしていましたね。
でも、世間の人から見たら人生ナメてるところがある若造でね。ああしたい、こうしたいという欲があまりないものだから、まぁ、死ななきゃいいや、なんとかなるだろうと考えていて、言うほど勉強もしてない。浪人している時も、親に心配かけたくなかったから家を出て予備校に顔を出してましたけど…俗に言う浪人生とは程遠い生活をしてた。ほんと、高校出てすぐ位の頃は、人生ナメてましたから、今、取り返せるなら戻って勉強したい、そのくらいふざけた浪人生でした。運動もしないし、ぐうたらしてプラプラしてたって感じでね。今、自分の子供がそういう生活を送ったら、僕だったら殴り飛ばしているだろうけど、うちの親はよく我慢してくれていたなと思います。息子を信用してくれて、自由にやらせてくれてたんですよね。僕が親だったら許せないです。
僕は早大生になりたいというよりも、早稲田大学野球部員になりたかったので、受験結果発表の掲示板で自分の番号を確認して、普通なら事務所に行くところを、その足で安部寮に挨拶に行きました。とにかく、早稲田のユニフォームを着て、神宮で早慶戦のマウンドに立ちたい一心だった。

人生で一番嬉しかった瞬間!
早慶戦で完封し、「夢のまた夢」を実現。夢はかなうと実感!

 基本的には野球中心の生活でしたね。初めてマウンドに立ったのは1年生の秋。試合どうこうではなく、嬉しいのを通り越して、ふわふわ浮いてて。とにかく早慶戦見て、早稲田で早慶戦を完封したいと夢見ていたら、たまたま2年の秋に、夢にまで見た瞬間がやってきたんです。
とにかく、早慶戦で慶應に完封勝利を飾りたい! と思ってましたから、かなった瞬間はもう人生どうなってもいいって思った。今まで生きてきた中で一番嬉しかったことです。プロ生活とは比べ物にならない。なんせ天下の早慶戦で完封したんだから。周りで見てた人には優勝したっていうくらい大喜びしてたって言われたけど、本当に嬉しかったですね。
手の届くところに目標を設定することは誰でもできると思うんです。僕は甲子園にも出てませんから、その当時、早稲田のユニフォームを着て神宮で投げるなんて、夢のような話で。なおかつ、天下の早慶戦で完封するなんて、本当に夢のまた夢のような話。そういうのと違って、プロ野球に入って年間何試合も投げるっていうのは、これは努力すればできることだから、夢のレベルではないんでね。そういう意味では夢は持てなくなりつつある。あの時、人生ナメてた若造が、慶應完封したいと漠然と描いてた夢が、まさかかなうなんて思ってなかった。
今にして思えば練習は相当キツかったね。早稲田の野球部のように歴史がこれだけあるものの中で、その看板を卒業しても背負わなくてはいけないとなればね。でも、キツイ、しんどいと思うと何もできないんで、自分のためっていう気持ちがあれば無理なことを頼まれてもなんとかなるもんなので。何か言われて、はなから駄目だ、と決めつけてたら絶対できないけど、基本的にはなんとかなる。
卒業して世の中に出ると、白いものを黒と言うような人がたくさんいますけど、そういう人を前にして「僕には白は白にしか見えません。あなたはおかしい」と面と向かって説明して、話し合えるようになったのも、4年間の経験があったからこそ。4年間で得たものは大きいですね。

教師になって高校野球の監督になるつもりだった。それが両親もビックリのプロ野球選手に!

2年浪人して親にかなり迷惑をかけましたから、とにかく卒業だけはしようと授業は出られる限りちゃんと出てました。でも、両親は僕がレギュラーになるなんて思ってなかったし、プロなんて想像もしてなかったから、学校の先生にでもなればいい、と教職を取ることは親と約束していてね。
でもなかなか単位も思うように取れなくて、1年経って成績を見せる時に、「2年浪人して、1年留年するかもしれない」と話をしたら、苦労して入ったんだから、何年かかってもいいから卒業だけはしなさいと言ってくれて、結構気が楽になりましたね。4年間でなくとも、とにかく卒業証書がもらえれば、と。だから僕は野球に没頭することができたんですよね。
忙しいっていっても、時間のやりくりを上手にすればちゃんとできる。24時間野球だけやってるわけじゃないんだから。友達が誘惑に負けて授業を休んでも、部も練習のない日を作ってくれてましたし、そういう日を上手に使って授業には出てました。きちんと学生してましたよ。
僕自身も、将来については学校の先生になって高校野球の監督になれればいいかな、と軽い気持ちで思っていましたよね。早稲田での4年間を人生のピークにしたいと思っていて。そうしたら、社会人も何チームも声をかけてくれた。それで身体の動くうちは野球を続けて、最終的には学校の先生をやろうかという気になりましたね。さらに、スカウトの人がだいぶ早い時期から来てくれたんで、僕はどこでもやりますよ、と。そうしたら、プロから声がかかった。
10何年も同じことを繰り返していると、同じような場面が何回も出てくるんで、感動が薄れてくるんですよね。そういう点で言うと、一番感動したのはドラフト会議のときかな。1位で指名しますって言われていて、当日指名を待っていたんですけど、実際に名前が呼ばれて、パネルに名前が出たときは嬉しかった。「プロが指名してくれたんだ」って。その日がプロに入って一番嬉しかったかな。
プロに入って300試合以上、2000イニング以上を投げていると、今目の前にあることも過去に同じようなことがあったなぁとどこかにあるので、新鮮味がなくなっているのが事実なんです。目の前にどんなことが起きても慌てることもなくなってきますし。年を重ねるに連れて、熱が冷めてくるのは事実かな。だいたいこういうので、皆引退を考えるんでしょうけど。そういう年になったんだ、というのが本音ですね。

ついにFA宣言!
「イチか、バチか」目指すは憧れの大リーグ入り

正直、投げられても、もう1~2年じゃないかと思う気持ちもありますから、学生の時からアメリカっていうのが頭にあったんで、憧れていた大リーグに挑戦することにしました。アメリカでやってみたいって思ったのは学生の時でね。野球部のOBでドジャースの会長補佐をやっていたアイク・生原さんという方がいて、当時のドジャースの会長のピーター・オマリーさんと極秘で来日していたときに、たまたま早稲田の野球部の練習を見に来てくれて。それで生原さんとお話しているうちに、「野球とベースボールは違う」という話になって。そのときからですかね、漠然と大リーグでやってみたいと思っていたんだよね。
それで、今年、夢をかなえるチャンスが来た。どの道あと1年、2年だろう、駄目でもともとで、挑戦しようかな、と。早慶戦のマウンドに立ったときのようにドキドキしてますよ。これは、夢がかなうかどうか、ってレベルのものなので。実際に人生ナメてた若造が早慶戦完封したいっていうのと似てると思うんで。なんとかアメリカでいいお話があれば、という気持ちで今、待っている。割と気楽って言えば気楽かな。
家族に迷惑をかけるかもしれないけど、という前提の上で、嫁もきちんと納得してくれたんで。やっぱり家族には迷惑をかけないようにしなくちゃって思いますが、どうしても投げたいっていう気持ちがそれに勝った。基本的に、イチか、バチか、っていうノリで賭けみたいなものかもしれないけれど、自分でも楽しみにしているところがあるんでね。実際アメリカに行くようなことがあれば、本当に、子供みたいにはしゃいでしまうと思う。今から、そんな自分の姿が想像できるんですよ。
基本的に野球が好きなんだね。野球が大好きなんで、野球でハラハラドキドキできる、そういうことに感謝しないといけないっていう気がします。

インタビューを終えて、小宮山投手は野球部百周年記念写真展「野球部百年の歩み」を見学に。入口付近に展示された安部球場、東伏見球場の写真を見て、「懐かしいな~。(安部球場最後の全早慶戦の写真を見て)これ、投げたんだよ。写ってると思うよ」と、感慨深げに眺めている。
小宮山悟投手は熱い早稲田魂を胸に秘めた根っからの野球人だった。かつて早慶戦のマウンドを夢見たその気持ちで、今、再び大リーグという大きな夢に挑戦しようとしている。「夢」や「希望」という言葉が日々失われていく現在の日本。学生ですら夢を語らなくなっている中で、三人の子供の父親でもある小宮山選手が、大きな夢に挑戦しようとしている様子はあまりにも眩しい。
Dreams come true!  白球に込める熱い思い。志高き早稲田人である小宮山選手に、思いっきりエールを送りたい。

早大生のための学生部公式Webマガジン『早稲田ウィークリー』。授業期間中の平日はほぼ毎日更新!活躍している早大生・卒業生の紹介やサークル・ワセメシ情報などを発信しています。

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