■はらだ・むねのり
1959年、東京都生まれ。82年、本学第一文学部演劇科卒業。84年「おまえと暮らせない」ですばる文学賞受賞。以後、小説、戯曲、エッセイなどの執筆で若者の絶大な支持を得る。主な作品「スメル男」「優しくって少しばか」「スバラ式世界」「むむむの日々」など多数。
★作家をめざしたきっかけ
作家になるには幾つかの段階を経ているんですけれど、父親が今で言う「家庭画報」だとか「世界画報」みたいな、写真中心の大判の本のセールスマンでした。当時は町にあまり本屋さんがなかった時代で、セールスマンが定期購読の契約に回って、結構商売になってたんですね。それが僕の小学校一、二年の頃で、物心ついた頃から家にたくさん本が積んであったんで、自然に本と親しむということがありました。それが一つですね。
もう一つは、本を読んでいると書きたくなるじゃないですか。小学校の五、六年の時の担任の先生がとてもいい先生だったんです。これは今でも感謝しているんですが、生徒の欠点は言わないで、長所だけを誉める先生だったんです。「君は算数はできないけれど、跳び箱五段跳べるのは君だけだ」とか「君は笛がうまい」とか、一人に一人ずつ誉めるんですよ。それで、僕はあまり誉めるところがなかったのか、「お前は作文がうまいな」って言ってくれた。僕もすぐその気になる方ですから、「俺は作文がうまいんだ」と思って。先生がそう言ってくれるんなら長めの童話みたいなものを書けば喜んでくれるだろうな、と思って。夏休みに三十枚ぐらいの童話みたいなものを書いて、先生に見せたらすごく喜んでくれたんです。その時に、自分が書いたものを人に読んでもらって、その人を喜ばせるということの喜びを知ったような気がしますね。
その後、中学生になってからも、自分が書いたものを人に読んでもらって「面白いね」って言ってもらうことは面白いことだと思っていて、ちょこちょこ物を書いていました。
高校からは岡山へ行ったんですけれども、岡山は当時にしては東京に比べて少し遅れていて、精神的な時代錯誤みたいなものがあったんです。旧制高校に憧れて、腰に手拭いをぶらさげたい、と思っているような高校生がまだいたんですよ。その中に「文学青年」と呼ばれる人もいて、そういう連中が集まっている喫茶店に僕も出入りして、いつしか彼らに感化されて、すごく本を読むようになりました。まわりの文学青年たちと勝負みたいにしてわざと難しい本を読んで議論をするのが遊びだったんですよ。みんな本を読むと書きたくなるじゃないですか。ほとんど全員「書く書く」と言ってたんですけど、ただ、他の高校生たちは大江さんが好きだったり、高橋和己が好きだったりして、割と長編型の作家に憧れを抱いていて、自分で書くのも長編、と思っていたから、なかなか書けなかったんですよ。僕は「小説と言えば短編だ」と思っていて、中でも志賀直哉の小説が好きだったんで、最初から短いものを書こうとしてたんですよ。それで十五枚とか二十枚のお話を書いたんですけれど、中学生の時にショート・ショートを書いたりしてましたから、一応最後まで書けたんですよ。それで、せっかく書いたんだから学研の「高2コース」だか「高3コース」っていう学習誌の学生小説賞に応募したら、たまたま入選して活字になった。それが十六歳の時です。
自分が書いたものが生まれて初めて活字になって、本屋の店頭に並んでる。それを、僕の知らない場所で僕の知らない人が読んで、面白いと思ってくれている-これは素晴らしいことだと思いました。まわりの先生や友達なんかも、それまでは鼻もひっかけてくれなかったんだけれど、急に一目置いてくれるようになって、それも活字の力ですよね。自分で書いたものが活字になるということがこんなに影響力があって、自分自身も気持ちがいいし、楽しいことなんだなあって。それで、これを仕事にしたいと思いました。そういう点では十六の時が一番大きい決意ですよね。
淡い憧れで作家になりたいと思ったっていうよりも、かなり現実的に考えましたね。作家になるのはそんなに難しくなさそうだと思ったんですよ。ちょこちょこっと書いた小説が活字になった位だから、何年も時間をかけて地力をつけていけば、新人賞みたいなところにはひっかかるだろうと。問題はその後で、当時も文学賞はいっぱいありましたけれども、今は百ぐらい文学賞があると言われてますよね。ということは毎年百人ずつ新人作家が出て来るわけで、その人達がみんな作家として残っていったら、日本は作家だらけになっちゃう。賞を取った次の年には見当たらない人がほとんどで、二冊目の本を出す人は百人のうちの十人、二十人ぐらいかな、それが三冊目になるともう三人になって、四冊目になるともう一人もいなくなるという世界なんだと。これは作家であり続けることが難しいんだな、とかなり早い時期にそう思いましたよ。
それだけ本気だったということだと思うんですけれども、長く作家であり続けて、できれば作家で死ぬためには、何をどうすればいいのかということを考えて、まず地力だと思ったから、今から十年間はお稽古だと思って、毎日何か書いていました。いいと思えば何でもやりました。
例えば、梶井基次郎が志賀直哉の短編を本から原稿用紙に書き写して、それを三好達治に見せて、「これが小説だよ」って言ったっていう逸話を聴いたらそれを真似して、志賀直哉の文章を原稿用紙に写して「こういう具合になってるのか」って知ったり。あるいは、テーマを決めて、馬場下町から高田馬場までバスに乗って、降りるまでの間にどんなことが描けるかっていうのを何通りにも書いてみたりとか。かなり一生懸命でしたね。そうやって、大学へ入ってからも「お稽古」をやり続けて、涙ぐましい努力でした。
★学生生活
最初の一年の間は、非常にのほほんとしていて。学校の授業にもちゃんと出たし、家に帰っては小説をコリコリと書く、そういう生活を一年続けました。
ところが二年生になった時に、親父が借金作って家庭が崩壊しましてね。突然サラ金の取り立てが来るようになって、当時はサラ金の規制法がなかったからすごかったですよ。もちろん仕送りもストップして、学費も出してもらえなくなって。学校中退して働き始めるっていう手もあったんですけど、その時に一家が抱えていた借金の総額を考えると、今学校を辞めて働き始めて初任給十万円もらっても追い付かないと思って。人生最大のピンチをひっくり返すために自分にできることは、作家になることしかないと。これが大学二年の時で、進退窮まって、後ろがない状態で、どうしても作家になるしかないんだって思いましたね。作家にさえなれば、今自分がこうした目にあっていることを、いつの日か書いてしまえば落とし前が着くと。その時に、十六の時の決意をまた新たにしたわけです。その頃の方が今よりもよっぽど小説家らしかったかも知れないですね、意識としては。
アルバイトもずいぶんいろいろなことをしました。家の事情がありましたし、生活費も学費も僕が稼がなきゃならない状態で、かなりヘビーでしたよ。
今はいろいろなアルバイトの情報があるじゃないですか。当時、僕は岡山から出て来て、アルバイトってどうやったらいいのかわからなかったんですよ。それで、友達と二人で「アルバイトってどうやって始めればいいんだ」っていう話をして、「やっぱり人がたくさん必要なところへ行けば仕事があるはずだろう」っていうことになって、「それはどこだ」「後楽園だろう」って(笑)。それで、二人で後楽園へ行って警備員のおじさんに「アルバイトしたいんですけど」って訊いたら、アルバイトの管理事務所へ案内してくれて。即、採用されてホットドッグ・スタンドでホットドッグ焼いてました。それが一番最初のアルバイトでしたけど、そんなに長続きしませんでした。どうしてかって言うと、電車賃が出なくて、遠くから来てる友達はそれで二時間分ぐらい飛んじゃうんですよ。試合開始一時間前から試合終了までのアルバイトですから、五時間分ぐらいですよね。そのうちの二時間分が電車賃っていうのはキツイでしょ(笑)
それから、面白かったのはポルノ雑誌の袋詰め及び配達。当時ビニ本っていうのが出たばっかりで、その配達だったんですよ。最初は、そういうものを配達するのだとは知らなくて、単なる本の配達だと思ってました。アルバイト斡旋所で紹介してもらって、時給が良かったんですよ。それで、会社の人が来て、会社へ向かって歩きながら、「最初に断っておいた方がいいと思うんだけど、ウチで扱ってる本は柔らかい種類の本なんですよね」って言われたんですよ。「じゃあ、丁寧に包まなきゃいけませんね」とか言って(笑)。本当にそう思ったんですよ。和紙か何かでできているような高級な本じゃないかって。そうしたら、「そうじゃなくて、ずばりポルノだ」って言われて。「嫌いだったら今言ってくれれば、無理にとは言わないから」って言われて、「いや、好きです、好きです」って(笑)。一夏やりましたけれど、最初は驚きましたよ。でも、三日で慣れましたね。案内されて会社へ行って、倉庫をパッと開けたら、肌色の本ばっかりだから部屋中桃色に見えるんですよ。鼻血ブーでしたよ。とにかくいろいろやりました。
★今の学生に一言
僕は今年代的にどっちつかずの年代でしょ。上の世代の人達の言うことも、下の世代の人達の言うこともよくわかる。だから、若い人達に何か言うっていうのは難しいんですけれども、ベースの部分は早稲田の学生も他の大学の学生も、僕らの頃と同じだと信じたいですね。ただ、表に出すやり方がちょっと変わって来ちゃったのかなぁっていう気がします。 僕自身は照れ屋ですけれども、失敗慣れしてたから、失敗をあまり恐れなかった。何をやっても必ず一回は失敗するんですよ。一回でうまく行ったことってなかなかないんですよ。何でも二回ずつやらないとダメで、一回目は必ず失敗っていうふうに運命づけられているような気がして。だから、何をする時にも、「最初は失敗でいい」って思っているところがあるんですよ。今の二十歳ぐらいの人達は、「一回目からどうしても成功しなくちゃ」って思うようなところがある。最初は失敗しないと、成功した時に面白くないんじゃないかと思いますね。
それから、「一回目からどうしても成功しなくては」と思ってしまうから、思い切ったことができないっていうのか、極端なことをしないですよね。「どうせ失敗するんだ」と思えば、かなり極端なことができるじゃないですか。それを一般的には「バカ」と呼ぶのかもしれませんけど、でも、昔の早稲田の学生というのは、「バカ」が売り物だったと思うんですよね。「僕達はバカ。だから、極端なことするの」っていうのが早稲田イズムだったと思うんですよ。「バカをやっても面白ければいい」とか「人からバカと呼ばれようと、俺はこれが好きだからこれをやる」とか、バカな人が多かったような気がしますね。バカっていうと否定的な意味にしか使われなかったりするけど、僕は愛情を込めて、早稲田は「いいバカ」の集まりだと思います。今はみんなが頭が良くなって、バカが少なくなっちゃって、それが少し寂しいですね。