■みうら・よういち
54年、愛知県岩倉市生まれ。政治経済学部中退。74年「初級革命講座飛竜伝」でデビュー。78年ATG映画「星空のマリオネット」から、本格的にテレビ・映画の活動を開始。ドラマ「さすらい刑事旅情編」などで活躍中。
■入学、即芝居の道に
今でもそうだと思うんですが、新入生歓迎で各劇団が芝居を打ちますね。それを観に行ったたんです。「ちょっと面白そうだな」という感じで。劇団「暫」という、演劇研究会から分派したところの公演でした。そこが、早稲田小劇場の鈴木忠志さんをコピーしたような芝居をやっていたんです。それは、僕がそれまでまったく見たことのない世界だったんですね。まずストーリーがなく、俳優陣の持つ個性だけでつなげていく。でもそれがれっきとしたお芝居になっていました。もう面白くて、すぐそこへ入ったんですよ。でも、役者になるつもりはなかったんで、当初は裏方をしていました。
早稲田に入ったのは、もともと新聞記者になりたかったからなんです。だから政治経済研究会というサークルの方にも籍を置いていました。それと並行して、芝居の方も始めたという感じでしたね。そうしたら、結局芝居の方が面白くなってしまって、のめり込んでしまったんです。
一年生の四月の公演で、平田満(俳優)と初めて会ったんです。あいつ、すごく髭を伸ばしてたんで、最初は上級生だとばかり思っていました。ところがなんてことはない、同い年で、しかも同郷で。それが彼との出会いです。
■つかこうへいさんとの出会い
つかこうへいさん(劇作家・演出家)との出会いもその頃のことです。劇団「暫」の公演をつかさんが見にきたんですよ。そのときに、「体格がいいのが二人いる」ということで、僕と平田に興味を持ったみたいですね。それは、よく言えばピックアップですけれど、悪く言えば劇団つぶしですよね(笑)。当時は確かにそういう動きもあったんです。学生劇団は、大体きれいな女優が一人いればお客さんが集まりますが、それをかっさらっていってしまうんですから、劇団はつぶれちゃいますよね(笑)。でも、劇団「暫」自体は残っていましたけどね。
つかさんには一から鍛え直されました。というより、僕は芝居の経験が全くない真っ白な状態でしたから、逆にいじりやすかったのかもしれないですね。ド素人の方が色に染めやすかったんじゃないですか。最初はプロになろうとは思っていなかったんですが、つかさんの余りに圧倒的なテンション、パワー、それと「志」ですね。それにズルズルと引き込まれたんでしょうね。「世の中にこんな凄い人がいるんだなあ」という感じでしたよ。「しょうがねえからこの道で食うか」っていう感覚もあったでしょうね。他に特技もないし、「今さらサラリーマンにはなれないしなあ(笑)」ってね。
「初級革命講座」が表舞台でのデビューなんですが、僕の中では学生の頃からずっと継続しているという感じですね。芝居、映画にしても、テレビにしても、つかさんに育ててもらったようなものです。つかさんしか知らないですからね。だから、逆につかさん以外の人の言葉は入ってこないんですよ。いけないのは、台本読んで覚えるというのをあまりやってないでしょ。実際に言われて、それを肉体化していくことしか覚えていないものですから、つかさん以外の脚本は、読んでも入ってこないんです。だからある意味では僕は極端なのかもしれないですね。
■早稲田での五年間
大学は、キャンパスには毎日通っていたんですけど、六号館の稽古場に入り浸ってばかりでした。一日十二時間くらい稽古してましたから、授業には出られなかったですよね。その稽古に根岸季枝(女優)であるとか、早稲田以外の人たちも集まってくるようになりました。その頃は、芝居やって、酒飲んで、というくり返しの毎日でしたね。根岸なんか凄い飲み方でしたよ(笑)。
カリキュラムを四月に組むでしょ。「今年こそ授業出るぞ!」って思って、一週間くらいは真面目に出るんですよ。でも「次の芝居の稽古やるぞ」って声がかかると、もうダメなんですよね(笑)。朝十時くらいから夜中までぶっ続けで稽古の時もありましたから、次の日の一限には到底出てこられない。他にも旅公演なんかもありましたから。
■厳しい稽古の毎日
稽古は朝三時間くらいは肉体訓練ですよ。ジョギングをしたりして、サーキット・トレーニングに近いものがありました。体力も精神力も、消耗し切ってからでないと何も生まれないというのがつかさんの考えでした。「十二時間稽古してると思うかもしれないけど、実質的には二時間なんだぜ」って言うんですよ。それと台本がないんですね。あの当時の稽古はたいへん厳しいものでした。
そう、厳しさといえば、朝来ると机の上に投げる物が置いてあるんですよ。灰皿とか(笑)。当時の演出家というのは皆そうだったんですけどね。一度傘が飛んできたことがありましたよ(笑)。間一髪避けましたけどね。後で聞いたんですけど、投げたつかさんも、一瞬「あっ、これはヤバい」と思ったみたいです(笑)。そういうのは日常茶飯事でしたよね。でもそれは、稽古に緊張感を持たせるために、つかさんがまずご自身からテンションを高めていたんでしょうね。
でも、「もうこんな生活したくない」って二回くらい逃げたことがありますね。脱走ですよ、夜逃げ同然の。だけど、逃げたつもりでも、どこかに潜伏していると、見つかるんですよね、これが(笑)。京都に飛んで金がなくなって帰ってきたら、次の朝「ガラッ」と玄関が開いて「三浦いるか」ってつかさん本人が入ってきて「もうダメだ!」っていう(笑)。
■早稲田と自分に共通するもの
早稲田では、目上の権威というか、価値観というものを壊してやろうという反抗精神を培ったのかもしれない。ロックも矢沢永吉あたりから、日本の原形が出てきますよね。彼らのコンサートに行ってみて非常に口惜しかったのは、電気の力を借りて何千、何万の人を熱狂させてしまうというところでした。芝居では、僕らが生の声で何日間もかけてやるところを、彼らは一日でそれ以上のことをやってしまうわけですよ。だから「こりゃ一体どういうことなんだ?」と思ってやってみたのが、「ホット・リップス」というバンドのボーカルだったんです。やってみて初めて、それが大変だったかわかったんですね。まず、ライブハウスを回るでしょ。バンド自体はプロなんですが、僕のボーカルだけ素人なんですよ。そうすると客が途中で帰ってしまううんです(笑)。客はシビアですからね。それから、新宿でライブを2ステージやって家に帰ったら、足腰が立たなくなったことがありました(笑)。動きっぱなしでしたからね。「ああ、彼らのやっていることはこういうことなのか」とそこで納得したんです。未だにミック・ジャガーは東京ドームの右から左まで走ってますけどね(笑)。
でもロックン・ロールが僕にぴったりくるというのは、やっぱり体制に対する反発というか、ジェネレーションの戦いというテーマがありましたからね。今の子たちが聴いているものとは違いましたね。ダイレクトで荒々しく、なおかつゴツゴツしているというか。
■「僕らの世代」とは?
ちょうど僕は、ビートルズの人気や学生運動の勢いを受け継いだ時代、ヒッピーにしても、「フラワー」と呼ばれる一番後に位置する世代なんですよね。それぞれにやっと乗っかることができると思った途端、それがなくなってしまったという世代なんですね。その、ある種微妙なシチュエーションが、僕らの「時代」というものを形成したんでしょうか。それが「上の作ったものをみんな壊しちゃおう」という雰囲気になっていった。だから大学の授業にしても、真面目に出ている者に対して、「早稲田に勉強しに来てるの?」っていうか、「オイ、授業出てるぜ!」みたいな目で見ちゃいますよね。反抗するのが一番手っ取り早いですからね。
でも、今はそろそろ年齢的に「壊される」側になってきたわけでしょ。だから、正直言って「困ったなあ」という気持ちはありますよね。上もいないし。
ひょっとするとね、今子供たちがいろんな問題を起こしていますよね……その親たちというのは、まさしく「ぶっ壊してきた世代」なんですよ。でも、上の価値感を壊すだけ壊して、いざ自分たちが上になってみたら「俺たちの反抗って一体何だったの?」っていうような、空虚の状態を迎えている。でも、その親たちのプロセスを見て子供たちは大きくなっているんです。漠然とした言い方ですが、彼らが起こしている問題には、ひょっとしてそういったものが影響しているのかな? という気がしないでもないですよね。
■皆さんへのメッセージ
大学がね、就職するための通過点になっちゃうのは、一番つまらないと思うんですよ。僕らの周りには授業の他にもいっぱい宝物が落ちていました。もしかしたら授業が一番つまらなかったかもしれない。早稲田はその宝物を拾わせてくれたんですね。受験勉強が終わったときに、僕には芝居がパッと入ってきました。早稲田を出て各界の第一線で活躍している方々も、そんな宝物を見つけられた人たちなんでしょうね。
学生の皆さんにアドバイスといえば「せっかく遊べる時間があるんだから、遊びなさい」っていうことですね。「それでいいじゃない」っていう。いろんなものはキャンパスの中にも転がっているんですからね。遊びの中にも命をかけることはあるんですよ。そうしたら、ひょっとして普通のサラリーマンにはなれないかもしれない。でも、引き出しをいっぱい持ってた方が面白いじゃない。一匹狼になっちゃうかもしれないですけど、早稲田はそれを作るところでもあると思いますからね。