Pete
政治学研究科
ICC学生スタッフリーダー
2021年11月〜2023年9月在籍
差異と自己同一性
在日台湾人が日本で婚姻届を提出したい場合、婚姻届の国籍欄に必ず中国と記載させられることは知っているだろうか? 中国のアイデンティティーマークを受け入れる気がない場合、愛する人と結婚することはできず、結婚に対する日本政府からの権利と義務を受けることもできない。
* * *
アイデンティティとは、その人自身のパフォーマンスに対する認識、あるいは特定の集団と共有される概念であると考える。それは性別、適性、人種、宗教、国籍、歴史、文化的、政治的なものである。私は誰なのかという問いは、すべての個人が直面するであろう問いであり、存在と所属を求める生命の欲望とあこがれから来るものだ。この憧れは、私たちの存在の証と意味を探すよう促す。「私は誰なのか、どこから来たのか、どこへ行くのか」というような自己同一性についての疑問が生じる。自分が何者であるかという問いは、異なる場所で異なる生活を生きる他者との交流の過程で特に生まれやすい。異なる地理的環境、歴史的・政治的背景によって形成された人生経験は、時間の流れの中で蓄積された自分の身の回りに関連する知識や経験とともに、おのずと多様な「ライフスタイル」、いわゆる文化を生み出し、自分自身に対する理解や同一性を生み出していく。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。 言い換えれば、私たちのアイデンティティや自分自身に関する知識は、特定のレッテルを生まれながらにして持っているわけではない。 しかし、私たちの存在の「本質」を形作るのは、その後の経験なのである。 最も重要なことは、人間の本質、すなわち自己意識の確立、そして私たちが現実の存在の主体であるという事実が確立されるためには、他者からの承認が必要だということである。したがって、最終的に言えば、アイデンティティの追求とは、他者による自分の存在の「承認」を求めることなのである。 「私は何者か」という問いは、他者の目を通して映し出される。台湾人が外国で暮らすようにならなければ、婚姻権の行使と自己アイデンティティの葛藤に出会うことがなかったように、他者の目を通して映し出される自分がどのような人間なのかを知ることもなかっただろう。
「私は台湾人」?
なぜ台湾人は中国人として見られることに抵抗があるのか、不思議に思ったことはないだろうか。この質問に答えるのはそこまで難しくはない。 一言で言えば、「違い」だと思う。 そう、私の理解では、それはとてもシンプルな概念だ。 台湾人の自分に対する認識と、中国人の概念には違いがある。 「私は台湾人」という考え方は、大国創造神話から来ているわけでもなく、天地開闢や世界創造があるわけでもなく、ただ、台湾島に住む人々が自分とは何者かを模索し、自己同一性や自己理解を明確にしていく過程で、日本文化や中国文化といった異質な文化との絡み合いの中で「違い」を感じている。
それは政治的な自己同一性であり、民族的な「他者性」である。 日本文化や中国文化がもたらしたアイデンティティでは生活の実感を満たすことができず、そのギャップを埋めるために台湾アイデンティティが生まれた。 つまり、台湾人の台湾アイデンティティは、過去に起こった様々な異文化交流の中で、特に中国大陸の人々との相互交流の中で、政治的にも文化的にも、当時の既存のアイデンティティでは満たされなかったギャップを埋めるために、実際に芽生えたものなのである。 台湾人という概念を生んだのは、異文化交流であったと言える。
ICCで自分自身と出会う
異文化交流の意味合いは、異文化を理解することにあり、それは内側からのプロセスである。 しかし、異文化交流で見落とされがちなのは、外からの自己認識と理解ではないだろうか。上記のような事例を通して、異文化交流のより深い価値は、他者を理解した上で自己の存在を再認識することにあることがわかる。
私にとってICCは、「私は何者か」という問いを、誰もがより深く学べる場である。 異文化交流がもたらす自己同一性は、拒絶、漂流、模索、擁護、主張のプロセスである。 国籍、文化、言語、土地、生活習慣、血縁関係などの違いから、相互理解の過程には常に葛藤や違和感がつきまとう。 振り返れば、交流の過程で「なぜ自分は台湾人だと思うのか」と問われたこともあるし、「ナショナル・アイデンティティ」は「古い観念にとらわれて融通がきかない」、「時代遅れである」という考え方に出会ったこともある。
正直なところ、このような葛藤にぶつかったとき、最初は怒りや嫌悪感が強かった。 しかし、他人からの問いかけは、なぜ「私は台湾人」と言うのかを考え直すきっかけとなった。この過程で私の考え方は変わり、洗練された自己アイデンティティーは「凪」(嵐の後の穏やかな海面)のように滑らかになった。したがって、異文化交流が衝突を避けすぎるのは残念なことだと思う。これらの衝突は、鍛冶屋が鉄を鍛え続けるときに噴出する火花のようなもので、絶え間ない加熱と焼成によってのみ、真の異文化交流を実現し、互いを理解し、自分自身を再び知ることができるのだと考える。
ICC学生スタッフとしての自己同一性
- 台湾茶会イベント
- 台湾手作りワークショップ
- 司会の様子 (ICC photos)
ICCの学生スタッフになったことで、ICCとの関係は大きく変わり、異文化交流の様々な独特の機会を得ることができた。ここの学生スタッフは皆、とても才能があり、強く個性的で、多様で特別なバックグラウンドを持っている。このような人たちと一緒に働き、学生スタッフが自分自身や世界をどのように見ているのかを理解できたことは、早稲田大学での留学生活においてかけがえのない経験となった。様々なスタッフと一緒にイベントやプロジェクトの企画を書いたり、新しいプランや改善策を考えたり、ICCの広報を管理したり、異文化交流イベントを運営したり、異文化間の衝突を対処したりすることは、すべて自分をよりよく表現し、異文化交流の分野に溶け込む方法を学ぶ自己成長のプロセスの一部であると考える。
ICCを運営する職員もまた、学生スタッフが成長し、自己を追求できる場となるよう最善を尽くしている。学生スタッフにとって、職員は指導者であり、メンター、同僚、友達のような存在である。総合的かつ専門的なスキルアップの研修はもちろんのこと、指導が必要なときにはタイムリーで温かみのある教育を行い、自分たちのやりたいことを達成するために力が必要なときには最大限の手助けをする。同時に、ICCの翼の下で、学生スタッフがその才能と努力を存分に発揮し、自らの成功を達成できるよう、学生には最大限の自由も与えている。
すべてのプロジェクトや企画のプロセス、特にICCの学生スタッフの個人イベントは、自分の考えを他の人に自由に表現できる機会でもある。だからこそ、私自身、2回の個人イベントにおいて、異文化交流できる内容の台湾文化を選んだのだと思った。 ICCでは、政治や歴史などあまり物議を醸すような話題には触れられないが、文化的あるいは生活的な観点から、自分自身の理解や考えを共有することもできた。その過程で、自分の言いたいことを他人に受け入れられるように言う方法を学ぶことができる。このスキルは、私がここで学んだ最も貴重なスキルのひとつである。
時に厳しく、時に寛大なICCのみんなは、まるで大きな家族のようだ。この人たちの存在がなければ、「私は何者か」というテーマについて自分の考えを高め、完成させることはできなかっただろう。ICC学生スタッフになったことは、異文化交流における私の自己同一性の旅に欠かせないものだ。
- Workshop event squad
- 2年後の自分(ICC photos)
それであなたは何者?
- (photos by author)
- ICCで、私は夜明けの花のように咲く
いまでも「私は台湾人」と言い張る私だが、心境は荒涼とした哀愁漂う落ち葉から、4月の薫り高い暖かな日差しに変わった。ICCで奮闘した間、異文化交流の過程で、忙しさに追われ、傷つき、数え切れないほどの涙を流したかもしれない。しかし、それらすべてが成長と希望をもたらし、自信の滋養となる。文化は日常の中に息づいているのだから、仮面を脱いで異文化交流の回廊を旅してみよう! あなたは何者だかと聞かれたら、その答えに満足しただろうか? 自己同一性への探究の意志とうねりは止める事が出来ないものだ。人々が「私は何者なのか」という問いの答えを求め続ける限り、そしてあなたがICCにいる限り、自己同一性の探求は決してとどまる事はない。