
群像社 初版刊行日:2022/10/4 判型:四六判 ページ数:320ページ ISBN:978-4-910100-26-5
出版社URL:http://gunzosha.com/books/ISBN4-910100-26-5.html
「ロシア文学」と聞いて、どんな作家を思い浮かべるでしょうか? おそらく、ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフといった名前を多くの方は挙げるのではないでしょうか。また、最近の作家でいえば、ロシア語で執筆をおこなっているベラルーシ人作家のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが、ノーベル賞受賞を契機にして日本の読者のあいだでも一躍有名になりました。
しかし本書で扱うのは、そうしたメジャーな作家ではなく、1917年のロシア革命以前の20世紀初頭に活躍したアナスタシヤ・ヴェルビツカヤ、エヴドキヤ・ナグロツカヤ、リディヤ・チャールスカヤといった、おそらくロシア文学の研究者でなければ名前すら聞いたことがないであろうと思われる女性作家たちです。本書では、こうしたのロシアの中間層の女性読者を対象とした大衆小説といわれる文学作品のなかで、既存の「男/女」の秩序におさまらない非規範的な〈性〉のあり方がいかに示され、そうした表象を支える原理がいかなるものであったのかを、当時の社会・文化的コンテクストを参照しつつ考察しました。
ところで、なぜこうした、いわば「マニアック」な作家を取りあげるのでしょうか?その大きな理由は、進歩的女性像である「新しい女性」や、現代であれば「LGBTQ」と言われるような「男性的な女性」や「女性的な男性」、さらには「男性を愛する男性」など、当時としては先鋭的な性をめぐる主題を大々的に、時には煽情的に扱い、大衆の支持を獲得したからです。そうした意味でこれらの作家の小説は、ロシア文学史のなかで欠かすことのできないピースなのです。現代でこそ「LGBTQ+」や「SOGI(性的指向および性自認)」といった概念が人口に膾炙するようになりましたが、当時はそうした概念は混沌とした状態にあり、たとえば男性的な振る舞いをする女性主人公が「レズビアン」と呼ばれたりしていました。
本書が対象としている20世紀初頭のロシアの女性向け大衆小説は、一見すると、私たちにとって縁遠いもののようにも思われます。けれども、当時の絵入り雑誌に溢れかえる美容広告、女性たちのフェミニズム運動への参加、またそれに対する反発、同性愛者がみずからの性のあり方を打ち明ける「カミングアウト」――当時の大衆小説が映し出すこうしたテーマの数々は、現代を生きる私たちにとっても身近なものであり、時として切実な問題でもあります。私が文学研究を続けているのは、今から100年以上も前の海外の小説を読んでいても、そこに現代に通ずる事象が描かれていることに、驚きと同時に面白さを感じるからです。そうした私の思いが、本書を通じて少しでも伝わればと思っています。
〈研究内容紹介〉
ロシア文化の多様な性のあり方を探る
私の研究対象はおもに、20世紀のロシアの女性向け大衆小説です。これまでロシア文学の勉強をしてきたなかで、ドストエフスキーやトルストイ、トゥルゲーネフといったいわゆる「古典」に一定の面白さは感じつつも、あまり共感することがありませんでした。いっぽうで、現在ではほとんど注目される機会のない女性向け大衆小説とよばれるジャンルには、メロドラマ風のプロットのなかで性や恋愛の主題が煽情的に描かれており、私も当時の読者同様、そうした点に魅了されてしまいました。女性向けの恋愛小説のほかにも、当時の人気興行であったプロレスを扱った小説や、『ロシア文学とセクシュアリティ』のなかでは取り上げることができなったのですが、シャーロック・ホームズシリーズに着想を得た探偵小説やオカルト小説なども、この時代には多く書かれました。このような、いわゆる私たちが抱く「ロシア文学」のイメージとは異なった小説が大衆の支持を得て人気を博し、ベストセラーとなっていたことは、ロシア文学研究のなかでも重要な事実だと考えています。
大衆小説に関する研究と同時に、並行してロシアにおける「LGBTQ」を中心としたセクシュアル・マイノリティをめぐる社会状況や文化についても私は研究しています。ロシアでは、2013年に未成年にたいして同性愛などの「非伝統的性関係」の宣伝を禁じる、いわゆる「同性愛宣伝禁止法」が制定され、表現活動が大きく制限されるようになりました。文学を研究する者として、こうした社会の動きにも目を向ける必要があると考えています。近年では、チェチェン共和国での同性愛者への拷問(2017年頃~)、ロシア連邦憲法改正(2020年)、さらには「同性愛宣伝禁止法」の対象の成人への拡大検討など、性的少数者の人権を大きく制限する事象がおこっています。このように状況が目まぐるしく変化していくなかで、私は文学研究者としてそうした現実から一歩引き、これまでの歴史や文化的背景を踏まえて研究を続けていきたいと思っています。
早稲田大学文学学術院助教
安野 直(やすの・すなお)
1992年長崎県生まれ。早稲田大学文学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、早稲田大学文学学術院助教。専門はロシア文学、およびロシアのセクシュアル・マイノリティにかんする研究。著書に『ロシアの「LGBT」――性的少数者の過去と現在』(群像社、2019年)。おもな論文に、「ベストセラー現象を読み解く」(『ロシア語ロシア文学研究』第52号、2020年、日本ロシア文学会賞受賞)、“Russian Literature and Representation of Love between Men in the Post-Soviet Era”(『桐朋学園大学研究紀要』第48号、2022年)など。2020年、平塚らいてう賞受賞(日本女子大学)。