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【著作紹介】『「ロシア精神」の形成と現代―領域横断の試み』(文学学術院教授 三浦清美)

松籟社、A5判、刊行日2024/12/20、448頁、ISBN978-4-87984-458-3

本書は、日本に隣接する大国であるロシアの精神性を深く知ることが、このような混迷の時代だからこそ必要であるという認識のもとに、宗教学者の井上まどかさん(清泉女子大学文学部准教授/宗教学宗教史学、近現代ロシア宗教史)、民俗学者の藤原潤子さん(神戸市外国語大学ロシア学科准教授、かけはし出版代表/文化人類学、ロシア研究)、歴史学者の高橋沙奈美さん(九州大学大学院人間環境学研究院講師/宗教学、宗教人類学)とともに刊行した論文集です。公益財団法人三菱財団の人文科学研究助成を受けています。松籟社の編集者が次のような帯の文言を考えてくれましたが、本書の特徴をよく紹介してくれていると思います。「2022年2月のウクライナ侵攻以来、我々にとってロシアは不可解な国になってしまった感がある。しかし、ロシアにはロシアの理があり、それを支える価値観がある。ロシアの内在的な視点・論理を(それらへの同一化は慎重に避けながら)把握する必要性は減じていない。本書は宗教学、文化人類学、文献学など様々な領域を横断しながら、「ロシア精神」の源泉、変容、そして現代におけるありようを探る。」

ある友人が「これは共著というよりも競著だね」と洒落た批評をしてくれました。ロシア中心的なものの見方のリスクを説いた高橋さんによる序章と、にもかかわらずロシアの内在的視点をもった研究の重要性を主張した私による終章からお読みいただけると、この本の性格がよくわかるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、謎の隣国ロシアの深遠な精神性を追究した本です。

〈研究内容紹介〉

第1 章「人が呪文を必要とするとき」は、藤原さんによるものです。ソ連崩壊後の宗教復興の動きの中で、ロシアでは、個人の願望を実現させる手段としての「呪文」への関心が高まりを見せていますが、藤原さんは、現代の人気呪術師ナターリヤ・ステパーノヴァの著作にしたがって、呪文を必要としているロシアの人々のメンタリティと彼らを取り巻く現実を明らかにしています。読者は、ロシアの厳しい日常生活のありさまに衝撃を受けるのではないでしょうか。

現代の呪術師のおばあさん(藤原さん撮影)

第2章「ロシアの愛の呪文」はやはり藤原さんによるもので、第1章で扱ったロシアの呪文のなかで、とくに「愛の呪文」を取り上げ、具体的な呪文テクストの文体分析をしています。呪文は現実の不確定性を前提するものと言えますが、ごくふつうの人間が人生のなかで最も切実な願いをもって現実の不確定性と向き合うのは、恋愛にほかならないではないでしょうか。藤原さんが紹介する呪文テクストによって、ロシア人が、自分を超えたある力と、どのように向き合っているかが明らかになってきます。

第3 章「中世における宗教心のあり方」は、文献学者である三浦によるもので、中世ロシアで公教会を脅かすほど盛んであった「ロードとロージャニツァ」への崇拝について考察しています。キリスト教の教義のなかに、神の御母マリアが性の交わりなくイエス・キリストを宿したという処女懐胎の教えがあります。キリスト教の到来とともに、天からこの強烈な光が人間に向けて差してきたとき、その人間の姿が地上に映し出した黒々とした影が、まさにこの異教信仰「ロードとロージャニツァ」崇拝だったと言えるでしょう。この章は、ロシアの宗教的心性の考察となっています。

第4 章「教皇特使アントニオ・ポッセヴィーノが見たイワン雷帝のロシア」は、井上さんによるもので、16 世紀の後半、イワン雷帝時代のロシア(モスコヴィア)を訪れた教皇特使のポッセヴィーノが見たロシア像が示されています。教皇特使ポッセヴィーノは、国家の枠組みと利害にとらわれない外交主体であるいわゆる非国家エージェントでした。独裁君主中の独裁君主であるイワン雷帝のロシア=モスコヴィアが、西欧の非国家エージェントにどう見えていたのかに光を当てています。

ポッセヴィーノ(Wikimedia Commons)

第5章「危機の時代のロシアとニコライ2世崇敬」は、高橋さんによるもので、ロシア革命のなかでその家族と従者とともに処刑されたニコライ2 世への崇敬について詳述しています。ニコライ2 世とその家族は、ソ連崩壊後の混乱の中で、ロシア正教会によって列聖されました。高橋さんは、ニコライ2 世の列聖を犠牲者意識ナショナリズムとの関連において論じています。そこで焦点が絞られるのは、ロシアにおける国家と宗教の関係です。

ニコライ2世夫妻(Wikimedia Commons)

第6 章「呪いと祟りをいかに克服するか」は三浦によるもので、ロシア正教で最初の聖人であるボリスとグレープがいかに聖人になったのか、11 世紀におけるそのプロセスを再現するものです。若くして、あるいは幼くして殺害されたボリスとグレープは、ロシア民衆の異教的宗教観からは呪われた者と捉えられましたが、その当時のルーシ教会はまさにイエス・キリストと同一視して彼らを列聖しました。非業の死を遂げた統治者を聖人として祀るという精神性は時を経ても健在で、高橋が論じたニコライ2世の列聖にもつながっていきます。

ボリスとグレープ(Wikimedia Commons)

第7 章「ふたたび『イーゴリ軍記』とは何か」は三浦によるもので、18 世紀末の発見から偽作説さえあったロシア文学史上の名作『イーゴリ軍記』の読み解き方を、モスクワの研究者であるアレクサンドル・ウジャンコーフの最新の研究から明らかにしています。『イーゴリ軍記』は従来、異教的な作品と捉えられてきましたが、ウジャンコーフが提唱する新しい読み解き方を援用して、三浦はこの作品は正統キリスト教的な作品にほかならないと論じています。

第8 章「テオーシスとは何か」は三浦によるもので、中世ロシア文学の傑作である『ラザロ復活に寄せる講話』の研究史を詳述しつつ、この作品の構造分析によって、その文学的魅力がテオーシスに由来することを明らかにしています。テオーシスとは、イエス・キリストにおいて神が人間になってくださったという恩寵があった以上、人間も神になることができるし、神になろうとする努力のなかに人間救済の唯一の可能性があるとする、独自の身体感覚をもつ思想です。

ここに掲載された論文は、さらさらっと読める体のものではないかもしれません。ですが、日本という文化を背負ったそれぞれの研究者が、ロシアの精神性を理解しようと苦闘した痕跡であると言えるのではないかと思っています。その意味では、ロシアの精神性の研究の最前線を行くものとして、世界と渡り合えるものであると自負しています。読むことは簡単ではないと思いますが、ロシアという謎に少しでも近づきたいと思う向きには、是非お勧めしたい書籍です。

早稲田大学文学学術院教授
三浦清美(みうら きよはる)

1965 年(昭和40年)、埼玉県生まれ。専攻はスラヴ文献学、中世ロシア文学、中世ロシア史。博士(文学)。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了、サンクトペテルブルク国立大学研究生、電気通信大学勤務(1995年から)を経て2019年より現職。著書に『ロシアの源流─中心なき森と草原から第三のローマへ』(講談社)、『ロシアの思考回路-その精神史から見つめたウクライナ侵攻の深層』、訳書に『キエフ洞窟修道院聖者列伝』(松籟社)、『中世ロシアのキリスト教雄弁文学(説教と書簡)』(松籟社)、『中世ロシアの聖者伝(一)―モスクワ勃興期編』(松籟社)、『中世ロシアの聖者伝(二)-モスクワ確立期編』、ペレーヴィン『眠れ』(群像社)、ストヤノフ『ヨーロッパ異端の源流─カタリ派とボゴミール派』(平凡社)、ヤーニン『白樺の手紙を送りました』(共訳、山川出版社)がある。

(2025年2月作成)

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