
KADOKAWA、刊行日2023/07/21 判型 文庫判 ページ数 400 ページ ISBN9784044007485
この本は、2015年4月に角川選書の一冊として刊行したものに補遺を付し、カラー版として文庫化したものです。九相図とは、死体の変化を九段階に分けて観想することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観という仏教の修行に由来する絵画です。仏教文化圏に広く分布していますが、なかでも日本では、漢詩・和歌・説話などの文学とも結びつき、絵巻、掛幅、版本など多様な形態で描き継がれました。本書では、中国新疆ウィグル自治区トルファンのトヨク石窟の死屍観想図(6世紀)を最古例として、西域から中国を経て、東漸する仏教とともに日本へもたらされた九相図1500年の歴史を、文献や作例を通じて論じました。過去の作品をふりかえるだけでなく、現代美術における九相図主題の作品も取り上げたのは、私たちが生きる時代にも、様々な形で問いを投げかける図像だと思ったからです。
そうしたところ、刊行後、その本に思いがけずいくつかの賞を与えていただいたことで、九相図という主題が持つ現代的意義について、私自身が改めて考える契機ともなりました。現代の造形や映像における九相図表象へも視野が広がると同時に、それ以前にはほとんど接点を持ち得なかった、医学、法医学、心理学、民俗学、環境史等、多様なバックグラウンドを持つ研究者との対話の扉が開かれ、〈死体の絵〉という一見とてもネガティブな表象が、実のところとても豊かな思考の土壌となり得ることを経験しました。思うに、近年、環境人文学として形作られつつある議論の場に、九相図という主題も棹差しているのでしょう。九相図には、人間を地球上の特権的な存在と捉えるのではなくその一部として、山や川や海の、またそこに生々流転する生命の循環に接続しなおす思想が内在しています。
原著は、今から8年前に刊行した本ですが、まだまだ多くの論点を有する九相図の考察を、文庫化を通じてアップデートすることができました。一冊の本の生命誌としても手に取って読んでいただきたい、私にとってとても大切な著作です。
〈研究内容紹介〉
九相図に出会ったのは、学部生の頃、当時早稲田大学で日本中世美術史を講じておられた佐々木剛三先生が、鎌倉時代絵画の写実的傾向を示す作例として、那智瀧図などとともに紹介してくださったことがきっかけです。中世の日本で、人体や自然景に対する分析的なまなざしに基づく絵画が存在していたことに関心を持ちました。大学院に進学し研究テーマとして中世の仏教説話画に取り組む中で、先生がおっしゃっていた「写実」の背景には、宗教的観念や実践、仏教文化圏で成立・伝播した図像の伝統、それを受容した日本における解釈や展開など、多重構造の「実」が存在していることを理解し、ますます面白いと思うようになりました。
九相図に関する修士論文を書いて博士後期課程に進学したものの、なかなか成果に結びつかずにいたところ、文学研究者との共同研究を通じて九相図の多義的側面に思い至りました。九相図に関する作例や資料を集成した『九相図資料集成』(岩田書院、2009年)は、禅文学・文化を専門とする西山美香氏(2023年秋学期には、本学非常勤講師として「日本の伝統文化」をご担当です)との共編著です。版元の岩田博氏(岩田書院)のご高配もあって、編集を学部・大学院の同級生であった瀧来櫻子氏(当時タフデザイン事務所)に、制作をブックデザイナーの水橋真奈美氏(ヒロ工房)に委ねるという贅沢な環境で、小さな発見の積み重ねを、共同作業で本という公共財に収斂させる過程を経験しました。また、研究者向けの学術資料として刊行した同書に目をとめて、「九相図について、広く一般にも、例えば高校生以上の読者を想定して書けないか」と声をかけてくださったのが、角川選書版、そして今回の角川ソフィア文庫版を編集者として導いてくれた伊集院元郁氏(KADOKAWA)です。同社の制作担当者、校閲者の精緻な仕事にも支えられながら、九相図を主題にした本が再び世に送り出されます。
様々な偶然と、必然と、それらをつなぐご縁の中で、本づくりにかかわり続けられていることが何よりの喜びです。共同作業の足かせとなる、私自身の宿痾のような遅筆を改めることが最大の課題です。
早稲田大学文学学術院教授
山本 聡美(やまもと さとみ)
1970年、宮崎県生まれ。早稲田大学文学学術院教授。専門は日本中世絵画史。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。大分県立芸術文化短期大学専任講師、金城学院大学准教授、共立女子大学教授を経て、2019年より現職。著書に『九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』(KADOKAWA、平成27年芸術選奨文部科学大臣新人賞・第14回角川財団学芸賞・上野五月記念日本文化研究奨励賞を受賞)、『闇の日本美術』(筑摩書房、2018年)、『中世仏教絵画の図像誌 経説絵巻・六道絵・九相図』(吉川弘文館、2020年)、共編著に『国宝 六道絵』(中央公論美術出版)、『九相図資料集成 死体の美術と文学』(岩田書院)、『病草紙』(中央公論美術出版)などがある。
(2023年7月作成)