“Letters from the Haruki Murakami Library”―オチルフウ ジャルガルサイハン(Ochirkhuu Jargalsaikhan) “Letters from the Haruki Murakami Library”―オチルフウ ジャルガルサイハン(Ochirkhuu Jargalsaikhan)

“Letters from the Haruki Murakami Library”―オチルフウ ジャルガルサイハン(Ochirkhuu Jargalsaikhan)

“Letters from the Haruki Murakami Library” は「早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)を訪れて、だれかにお手紙を書くとしたら?」という発想で、国際文学館に滞在いただいた方に執筆いただくシリーズ企画です。
「国際文学館翻訳プロジェクト」で2026年6月に当館に滞在いただいた、モンゴル在住の翻訳者オチルフウ ジャルガルサイハン(Ochirkhuu Jargalsaikhan)さんに日本語で手紙を書いていただきました。


モンゴルの羊と翻訳者から村上文学への手紙

村上春樹ライブラリーを訪れるたびに、私は村上さんが描かれた羊の絵の前に腰を下ろし、静かに本棚を眺めるのが好きです。2400万頭の羊が生きる国から来た私にはその絵を背にしていると故郷の草原のぬくもりが背中からふわりと染み込んでくるように感じられるのです。

村上さんは《羊をめぐる冒険》で一頭の羊を日本の歴史、権力、支配、個人の自由をめぐる大きな物語へ送り出しました。

その羊は日本を出て、翻訳を通して世界を旅し、やがてモンゴルの草原にもたどり着きました。しかし、モンゴルに着いた羊は少し違う顔を見せます。

日本の物語の中で、羊は人間の内部に侵入し、その精神を支配する存在でした。けれどもモンゴルの草原では羊は人間の身体と生活を支え、同じ風、同じ雲、同じ季節を生きる存在です。

日本では羊が<群れへの服従>を表すことがあります。しかしモンゴルでは群れは必ずしも個性の消滅を意味しません。それは激しい自然の中で生命を守り、次の季節へつなぐ共同体でもあります。

しかし私たちは村上文学の中の羊を否定するわけではありません。その羊にモンゴルからもう一つの意味を与えたいのです。

羊は権力の象徴であるだけでなく、共生の象徴にもなれる。

群れは服従であるだけでなく、生命を守る知恵にもなれる。

孤独は自由を守るが、他者とともに生きることも自由になり得る。

村上文学の主人公たちは、井戸、森、壁、夢、暗闇の中へ入り、自分の内面を探してきました。けれどモンゴルの草原には、壁も井戸もありません。そこでは人間は内部へ降りるのではなく、遠い地平線へ向かって自分を探します。

深さだけが人間の精神を測るものではありません。広さによってしか見つけられない自己もあります。

日本の<井戸の深い文学>とモンゴルの<草原の広い文学>が出会えば、村上文学には新しい空間が開かれるのではないでしょうか。

井戸は人間の記憶の底へ向かいます。

草原は人間を他の生命と世界へ向かって開きます。

草原には様々な歴史の記憶もあります。

私、ジャルガルサイハンは村上文学の言葉を長年モンゴル語へ翻訳してきました。しかし、翻訳とは羊を日本からモンゴルへそのまま運ぶことではありません。

羊が国境を越えるとその背中の星の意味も変わります。日本語の中では権力の印だった星が、モンゴル語の中では草原の夜の星空、遊牧民の方角、生命を導く記憶として読み直されるかもしれません。

翻訳者は原文に従うだけの羊ではありません。二つの文化の間に立ち、二つの言葉の中に眠っていた別の可能性を目覚めさせる人です。

だからモンゴルの羊と私は、村上文学にこう申し上げたいのです。

羊を探す冒険は、まだ終わっていません。

文学の中で終わった旅は、翻訳された言葉の中で再び始まっています。

続いて夏帆も羊のように異質なものを静かに受け入れながら、それに支配されることなく、自らの物語へと変えていく<女性の羊飼い>なのではないでしょうか。

村上さんが日本で描いた羊は、モンゴルへやって来て権力の動物から生命の動物へ、服従の象徴から共生の象徴へと静かに変わり始めています。

今度は羊を追いかけるのではなく、羊とともに歩いてみませんか。

羊の中に人間を見るだけでなく、人間の中に羊の生命を受け入れてみませんか。

モンゴルの草原から一頭の羊と翻訳者オチルフウ ジャルガルサイハンより。

2026年7月23日


オチルフウ ジャルガルサイハン(Ochirkhuu Jargalsaikhan)

モンゴル国フブスグル県出身。モンゴル国立大学文学部卒業後1993-1998年まで国費留学生制度(教員留学制度)により日本留学。1998年からモンゴル大統領府大統領補佐官をへて現在モンゴル日本文学会代表。日本文学の翻訳者として活躍中。日本文学のモンゴル語翻訳としては、司馬遼太郎、村上春樹、夏目漱石、森鷗外、中島敦、泉鏡花、岡本かの子、太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、室生犀星、川村元気などの作品を手がけている。

 

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