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歴史的建造物から、その時代を読み解く 小岩正樹 助教 (2010年1月当時)

  • 小岩 正樹(Masaki Koiwa)助教(2010年1月当時)

法隆寺に何を思う

法隆寺のことは、みなさんご存知でしょう。実物をご覧になったことがある方も多いと思います。このような歴史的建造物に触れてみなさんは何を思われますか?

私は、建造物にはその時代の文化や社会状況が反映されている、と考えています。法隆寺に代表される飛鳥・奈良時代の建造物が建てられた背景には、どのような事情があったのか。この疑問に答えることが私の研究目的で、この分野を建築史学といいます。

「生産」と「技法」から建造物が建てられた背景に迫る

建築史家の日常は、建築家のそれとはだいぶ異なります。私の場合、飛鳥・奈良時代をはじめとする歴史的建造物を対象としていますから、当時の建設現場が描かれた絵図や、工匠の記した古文書を読み解き、建物と建物の関係性を探っています。
研究のアプローチ方法として、私は「生産」と「技法」の2つに注目しています。生産からのアプローチでは、どのような経緯で建造物が設計されたのか、どのような職能を有する人物・組織が建設に関わっていたのか、など建造物が造られた背景に着目しています。技法からのアプローチでは、どのような技術を用いて建造物が造られているのか、に着目しています。
これまでの日本建築史学では、様式からのアプローチが盛んでした。それぞれの建造物の特徴を明らかにし、春日造、書院造などの○○つくりに見られるような様式により建造物を分類し、それらを年代順に配列する編年作業を主とした様式史の研究が約100年にわたり行われてきました。様式史では、意匠、形といった建造物の有形的な側面が注目されます。そこから、建物の間の目に見えるつながりが解明されてきました。

現在では、このような比定・編年作業も一段落し、日本建築史学には新たな展開が求められています。そこで私は、生産・技法からのアプローチを加えることで、設計の経緯、職能、建築技術といった建築の無形的な側面に迫ろうとしています。そして、建物の間の見えないつながりを解き明かすことに挑戦しています。

法隆寺に見る飛鳥時代の文化とは

法隆寺の近隣に、法起寺ほっきじというお寺があります。実は、法隆寺五重塔と法起寺三重塔には形状に共通点があることが知られています。法隆寺五重塔の一重目、三重目、五重目の平面寸法(柱および柱間の長さ)が法起寺三重塔の一重目、二重目、三重目の平面寸法と同一になっているのです。しかし、なぜ同一なのかという背景は明らかになっていません。同じ生産組織によって造られたという仮説が考えられますが、両者は作成年代が異なるという問題もあり、現在は仮説を検証中です。
法隆寺はさらに、金堂の架構法にほかには見られない特徴があります。屋根の下地となり、軒を構成している部材を垂木たるきといいます。薬師寺東塔や唐招提寺とうしょうだいじ金堂を例にとると、内側の地垂木、外側の飛檐ひえん垂木の二段構え(二軒)。ところが、法隆寺金堂は地垂木のみの一段構え(一軒)です。日本の建築では二軒が普通で、法隆寺金堂の一軒は非常に珍しい。
ここで、軒先から柱真はしらしんまでの距離を見ると、法隆寺金堂、唐招提寺金堂ともに4.4mあります。唐招提寺金堂では、地垂木で柱真から3.5mの軒を造り、その上に重ねた飛檐垂木をさらに0.9m外側に出すことで、合わせて4.4mの軒を造り出しています。一方、法隆寺金堂では地垂木のみで4.4mの軒を造り出しています。つまり、軒の長さは同じでも、唐招提寺金堂は地垂木とそれを支える丸桁がぎょうがより内側にあり、技術的に安定した構造であることに対し、法隆寺金堂では地垂木と丸桁がより外側にあるため、天秤のようなかたちで荷重を処理しつつ、組物は雲肘木くもひじきという大断面の材を必要としています。

では、なぜ法隆寺金堂は技術的な困難を抱えてまで、4.4mの軒を造り出したのでしょうか。私はここに当時の文化・思想が反映されていると考えています。現在の建築では安全性が最優先事項です。どんなに美しくても技術的に無理のある建物は許されません。しかし法隆寺金堂では、安定性を考慮し軒を短くするという選択をしなかった。それより、4.4mの軒を造ることが重要視された。つまり、深い軒を造ることで得られる外見の美しさを最優先事項とする文化が背景にあったのでしょう。

小岩先生_図

研究をどう広げていくか

私の研究は、最初からピースの足りないジグソーパズルで、完成の絵柄の想像を目指すようなものです。古代の建造物を対象としているので、現存する建造物が少ない。建造物について記した絵図や古文書などの史料も少ない。建造物と史料が両方存在しているものは、ほとんどありません。そこで、1つの建造物に注目するのではなく、複合的にものを見ることが重要となります。注目する部位を増やす、ほかの事例との共通点を探るなどしながら、全体像の解明に奮闘しています。

私は日本建築史の世界に足を踏み入れた当初、江戸時代から明治時代への移行期における生産組織について研究していました。開国後に西洋建築が導入されるなか、日本の生産組織がどのように新技術を習得していき、生産体系が変化していったのかを明らかにするものです。この江戸から明治への移行期と先史時代から飛鳥・奈良時代への移行期には、外国からの技術導入という点で共通項があると考えています。将来的には、この時代の異なる2つの移行期を並列的に扱えるような、時間軸に捉われない建築史学の一分野を開拓したいと考えています。

 

取材・構成:吉戸智明/伊藤容子
協力:早稲田大学大学院政治学研究科MAJESTy

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