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言語文化交流と翻訳語 ―近代中国語を軸として― 千葉謙悟 助教 (2009年3月当時)

  • 千葉 謙悟(Kengo Chiba)助教(2009年3月当時)

欧米の資料で中国語を研究

日本では多くの外来語をカタカナで表記しますが、中国では外国から入ってきた言葉も漢字を使って書き表します。「club」を「倶楽部」といったように、発音の似ている漢字を当ててつくられた言葉を音訳語といいます。私は、中国の16世紀から20世紀において音訳語がどうやって創造されて定着していったのかを研究しています。また、その当時の中国語の方言について、とくに中国の内陸部である長江中流・上流域の方言の発音はどのようなものであったかを復元する研究をしています。
実際の研究では当時の中国語について書かれた欧米の文献を調べます。中国では16世紀ごろからキリスト教の布教が行われていました。宣教師たちは自ら中国語を習得し布教活動を行い、キリスト教に関係する言葉はもちろん、当時の中国にはなかった物や概念の名前を漢字で書き表す必要がありました。こうして、当時の中国語について書かれた文献や中国語の辞書が欧米に残ったのです。宣教師たちはさまざまな国から来ていましたので、英語だけでなくフランス語やロシア語などの文献もあります。
宣教師たちの記した文献には当時の中国語の発音がアルファベットで記されています。アルファベットで発音が書かれた資料は中国語の研究にはとてもありがたいものです。ご存知のとおり中国語は漢字を使います。たとえば「立」という漢字の発音を知りたいときに、「栗」や「歴」と同じ発音ということがわかったとしてもそれらの漢字の発音を知らなければ結局どのような発音かわかりません。しかし、アルファベットで「li」と書かれていれば、「リ」に近い発音をしたのだということがわかります。宣教師の記した文献を詳しく調べることで、当時その言葉をどのように発音していたのか知ることができるのです。

音訳語と方言の深い関係

音訳語の表記の仕方は、それが作られた地方の方言に深い関係があります。
現在の中国語ではアメリカのことを「美国」、フランスを「法国」と書き、日本語とは異なる漢字が使われています。一方、イギリスについては「英国」で日本語と同じです。しかし、宣教師たちの記した資料により歴史をさかのぼると、中国でもかつては日本と同様に「米」「佛(仏)」と書き表していたことがありました。
たとえば『清末教案』という19世紀の中国のキリスト教にかかわる外交文書を集めた書物を調べると、1840年ごろから50年代にかけてはアメリカを表す漢字として「米」が多く使われたことがわかります。日本へはこのころに伝わり、「米」が定着したと考えられます。ところが、中国では1860年以降はすべて「美」の字が使われています。どうして使われる漢字が変わったのでしょうか。この疑問を解くには、その音訳語がどこの方言の発音に基づいて漢字に直されたのかが重要になります。

図1米から美へ(千葉先生)

表1:「米」から「美」へ(表提供/千葉謙悟助教)

図2仏から法へ(千葉先生)

表2:「沸」から「法」へ(表提供/千葉謙悟助教)

図3不動の英(千葉先生)

表3:不動の英国(表提供/千葉謙悟助教)

上の表を見てください。中国に来た宣教師たちの記した中国語辞書をもとに、「美」「米」という字を中国のそれぞれの方言でどのように発音するかをまとめたものです。音訳語を作るときにはもともとの発音と近い漢字を使うと考えられます。「アメリカ」の「メ」という音に近い漢字はどちらでしょう。広州方言では「米」のほうが「メ」という音に近く、上海や南京、北京などの言葉では「美」のほうが近い発音です。1840年から50年代にかけては広州方言を基にした「米」が、1860年以降は広州以外の方言を基にした「美」が使われたと考えられます。
次に「フランス」について見てみましょう。上海の方言では「佛」は「v」から始まる発音です。これは「f」から始まる「法」とは発音上違うものです。つまり上海の方言では「フランス」の「フ」に「佛」という字は当てられないということになります。ほかの方言では上海ほどは差がありません。「フランス」に「法」の字を使うことが上海で定着し、ほかの地方にも広まったのではないかと考えられます。一方、「英」という字は表のとおり、どの方言でも「イングランド」の「イン」という発音に似ていたために「英」という字に落ち着いたと考えられます。
これらの音訳語の変遷には当時の時代背景が深く関係しています。日清戦争の後、1842年に南京条約が結ばれ、香港がイギリスに割譲され、また広東、上海、厦門など5つの港が開港されました。特に主要な貿易港であった上海には1844年に印刷所ができました。このような変化の影響が、少し遅れて1860年ごろに出てきたのではないかと考えています。南京条約より前は欧米に対して開いていた港は広州ひとつでしたので、広州方言をもとにした音訳語が広く使われていましたが、ほかの港が開港され、印刷所もできたために広州以外の方言が音訳語に使われるようになったと考えられるのです。

恩師との出会い、そして学問の道へ

私はもともと言語学を学ぼうと思っていたわけではなく、中国の近代史とくに清朝を勉強しようと思い早稲田大学の文学部に入りました。ところがその文学部で、私の師匠である古屋昭弘先生と出会ったのです。
それは中国語学の音韻論の授業だったのですが、言葉が時代によって変化し、それには一定の法則があるというのです。時代によって言葉の発音は変わっていくのですが、変わり方はランダムではなく、一定の条件で、同じ条件であれば音がいっせいに変わるのです。私はすごく感動しました。歴史言語学の何たるかを教えてくださり、私をその道に導いてくれたのが古屋先生でした。その当時、私は就職先がすでに決まっていたのですが、先生について行こうと、大学院に進学する道を選んだのです。
博士論文から早稲田大学高等研究所にいたるこれまで、私が研究してきたのは19世紀後半の中国の翻訳語が中心でした。次は20世紀の前半か、16,17世紀かどちらかを研究したいと思っています。そして、一生かけて16世紀から20世紀までの中国の翻訳語の歴史が研究できれば、悔いなしと思っています。

取材・構成:青山聖子/竹谷知永子
協力:早稲田大学大学院政治学研究科MAJESTy

 

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