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人の営みから見える ネパールの儀礼の今昔 杉木恒彦 助教 (2008年1月当時)

  • 杉木 恒彦(Tsunehiko Sugiki)助教(2008年1月当時)

ネパールの「牛の行列祭」

ネパールの首都カトマンズでは、毎年夏になると「ガイジャトラ」という牛の行列祭が開かれます。これは、1年に一度ヤマ神(死の神)の世界への門が開くとされる日に合わせて行われる儀礼です。
私はおもに、中世期の南アジアの仏教・ヒンドゥー教を研究していますが、ここ数年は、グローバル化する現代における仏教・ヒンドゥー教のすがたの解明にも手を広げています。ネパールのガイジャトラの研究は、その調査の一部として行っています。

死の神への送魂と今に残る伝説

ガイジャトラは午前と午後に分かれて構成されています。
午前中は、死者の魂をヤマ神のもとへと送り、よき転生を得るための伝統的な行進です。ヒンドゥー教のネワール族が祭りの担い手となり、1年以内に死者を出した家族が、牡牛あるいは牝牛に扮した親族の幼い男子を先頭に街中を練り歩きます。この行進のあいだ、在家カーストの秩序はあいまいになり、さまざまな身分の人たちが混在したなかで、魂はヤマ神のもとへ送られます。
午後になると多目的な行進に変わります。特定の信念をもった学生団体や仮装集団などが行進をはじめ、人々が政治や体制、権力者を公の場で批判し、皮肉を言い、笑いあって盛り上がります。
ガイジャトラには、次のような言い伝えがあります。18世紀初頭、息子を失ったマッラ朝の王妃の心を癒すため、当時の王は、その年に死者が出た家庭に牝牛を率いて街中を行進するように命じました。その行進のなかで、人々はブラックジョークを言い合い、それを聞いた王妃はたまらず笑い出し、悲しみを克服することができたというものです。

性的マイノリティーも参加-伝統文化と現代文化の交錯

午後に行進する集団のなかでは、近年、性的マイノリティーたちが現地の人々の注目を集めています。ネパールでは性的マイノリティーの人たちが偏見から虐待され殺害されることもあり、性的マイノリティー団体「BDS(Blue Diamond Society)」は、こうした人々やHIV/エイズで亡くなった人々の魂を送ることを目的として参加しています。
彼らはガイジャトラの伝統的特性に沿うかたちで戦略的に行進することで、自分たちのセクシュアリティーを主張し、性的マイノリティーを受け入れる社会という新たな現実を作ろうとしているのです。自分たちは、先進国の性的マイノリティーの仲間である――BDSの活動はこのような国や地域を越えた同胞意識に基づいて、自分たちのローカルな活動のなかにグローバルな文化を組み込んでいるのではないかと私は考えています。この解釈は、グローバル化時代における第三世界の文化の理解にも役立つのではないでしょうか。

「脱・聖典主義」の研究で儀礼に新しい解釈を

南アジアの伝統儀礼の研究では伝統文献(聖典)に基づく研究が強い傾向として存在しているのですが、私はその研究に加え、あらたな方法を提示したいと考えています。
文献を主体とする研究では、儀礼とは「聖典に説かれる僧侶階層の神学を実践レベルにおいて具体化したもの」と解釈されがちです。そのような解釈では、儀礼の現代的な変容は2次的なものとして扱われがちです。しかし、聖典は僧侶階層の言語(サンスクリット語)で書かれており、学識のある一部の僧侶や外部の学者はともかく、一般の人々は読むこともできません。だから、一般の人々が参加主体として重要な構成要素となる儀礼を研究するうえで、聖典に基づく儀礼解釈だけでは儀礼の現場の感覚と解離してしまうのではないかと私は考えているのです。
現地の僧侶はガイジャトラをヒンドゥー教の範疇におさめます。そのため、仏教の僧侶は参加しません。僧侶は、そして実は学者もしばしばそうなのですが、ヒンドゥー教と仏教を厳密に区別したがります。しかし、現実には(学者や僧侶の区別に基づく)「仏教」の尊格を信仰する人々もこの儀礼に参加しており、彼らはそこで仏教の尊格を讃える歌や音楽を奏でたりしています。一部の僧侶や学者といった知識人層以外の人々は、仏教とヒンドゥー教をあまり区別しないのです。宗教の区別は、客観的で自明なものではなく、特定の集団の認識と結び付いたものなのです。
私は、人類学や文献学もからめながら、ヒンドゥー教の儀礼とそこに見られる人間関係の研究を通して、南アジアの現代の儀礼の解釈に新しい視点を加えたいと思っています。

杉木先生_図

「ガイジャトラ」の様子。上は、死者の魂をヤマ神のもとへ送る伝統儀礼。下は、性的マイノリティー団体(BDS)による行進。(提供/杉木恒彦助教[上下ともに])

宗教の本質とは何か

いま世界中に広まっている「宗教」という認識の枠組みは、キリスト教的な内面の「信仰」を重視するタイプのものです。しかし、たとえば日本やネパールのように、慣習的に初詣をするなどといった慣習的「実践」に重きをおく宗教のかたちも、世界にはたくさんあります。
宗教の本質は何か。この問いの探究は、「宗教」という枠組み形成の考察と切り離すことはできません。「宗教」という、政治や経済、文化とならんで人間の特定の営みを一括りにする普遍的な枠組みは、近代以前には存在しません。それは、大航海時代を経て近代帝国主義による欧米の世界進出、それにともなうキリスト教の世界進出、そして近代の政教分離の趨勢のなかで形成され、世界各地に定着していったのです。宗教の本質は何かという問いは、「宗教」概念の形成の問題と表裏一体のものとして探究されなければなりません。

取材・構成:吉戸智明/中根圭一
協力:早稲田大学大学院政治学研究科MAJESTy

 

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