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村上春樹ワールドに魅惑され

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)助教 権 慧(けん・え)

村上春樹さんの小説によって、どれだけ多くの人が救われたのだろうか。
――隈研吾「トンネルとしての建築」

確かに、私もそのうちの一人だ。

最初に春樹作品に出会ったのは2002年の秋のこと、高校一年生、はじめて家から離れて高校の寮で暮らしはじめた頃だ。高校は進学校で、まさに軍隊のようなところで、厳しく管理され、朝から晩まで受験勉強をせねばならない暗黒の日々だった。ちょうど『ノルウェイの森』が中国でブームになり、本屋では山積みになっていたので、思わず手にとって読んでみたところ、「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と書かれたところに心を惹かれた。

その後、村上ワールドに吸引され、中国で出版されたすべての作品を読んだ。戸惑いや悩みの多い思春期、大学受験という高圧に追われた状態で、高校では「教科書以外の本を学校に持ち込むな」という禁止令が出された。夜消灯後は寮の管理人さんがドアの小窓から、みんながちゃんとおとなしく寝ているかチェックする。お布団の中に全身を隠して、懐中電灯の光に照らされながら春樹作品を読みまくり、それは一日を締めくくる重要な儀式であり、唯一のリラックスの時間だった。管理人にばれて叱られ、担任先生に数冊も没収されたが、それは逆により読書に集中したいという反抗にもつながった。

大学では日本語学科に入り、2008年交換留学生として来日して、初めて日本語原文で春樹作品を読むことができた。中国語訳本で読んだのと異なる主人公たちの顔が浮かび上がり、さらによりインパクトがあってより感動を覚えたのだ。「春樹さんは詩人、いわゆる‘仙風道骨’のような文学青年ではないんだ」ということに驚きを禁じえなかった。そこで韓国にいる友人にハングルの『ノルウェイの森』を送ってもらった。届いたのは『喪失の時代(상실의 시대)』という訳題だった。日本語原作と照合しながら、韓国語で読んでいたら、興味深い発見がいくつかあった。例えば原作にない文などが多く追加され、さらにヒロインの緑がため口でワタナベに話しかける場面を全部丁寧語に変更した。これによって、最初からワタナベと親しくなりたいと思う緑の気持ちは十分に表現できなくなったこともあるだろうが、訳本から当時保守的な韓国社会を覗くことも可能になった。

このように、同じ作品であっても地域によって、異なる人物像が呈示されることに興味を持ったので、卒業論文は『風の歌を聴け』と『ノルウェイの森』を中心に中国語と韓国語の比較をしてみた。解けていない謎も多く、大学院進学を決め、研究を続けたいと思ったのだった。その時出会ったのが藤井省三先生の『村上春樹のなかの中国』であった。春樹の作品世界にこんなに多くの中国要素が含まれていたとは! と感服しつつ、勉強不足を実感し、恐る恐る藤井先生にメールを送った。それが本格的な村上文学研究の始まりとなったのだが、その後東京大学大学院で先生の指導を仰ぎながら、中国語圏や韓国では村上文学がどのように翻訳され、受容されているかについて調査した。その成果として光栄なことに藤井先生が提起した東アジアでの村上文学受容の四大法則に続き、「異化翻訳化法則」を加えることができたと自分では考えている。

2014年早稲田大学にて学会発表

2018年に早稲田大学で村上春樹ライブラリー(国際文学館)ができて、世界各国の訳本や直筆原稿が展示されるとの記事を読んだとき、これはまさに私にとっての天国ができるのではないかと思った。春樹の作品はすでに50以上の国や地域で出版されているが、その訳本もライブラリーにそろう。版本研究する際にもっとも大変だったのは各訳本を入手することであって、絶版になったものを古本屋で探しまくったり、中国や韓国の図書館に浸ってコピーをしたりした。今後このような作業を身近の図書館でできることで、村上文学研究や翻訳文学研究にはより美しい花が咲くのではないかと思った。翌年公募があったので、春樹作品への深い愛と研究への決心を面接で語り、運よく2020年4月から教員として働くことができた。

村上春樹ライブラリーで、多くの来館者と交流を重ねた。ある「村上主義者」の女性と仲良くなり、彼女は来館予約ができるようになった9月から、開館当日より三日連続予約を入れた。彼女と好きな作品やプロット、映像化作品に対する不満など多くの共通点があり、すぐ親しくなった。館内のギャラリーラウンジには春樹の作業デスクの写真が飾られており、校正ゲラの上にボールペンと鉛筆が置かれてあった。彼女はその写真を眺めながら、「あのボールペン持ってるわ」と話し、驚いたことに翌日に新しいのをプレゼントしてくれた。春樹作品がきっかけとなって絆を深めることができ、その日にはもう一つサプライズがあった。彼女が小学生の娘さんとそのお友達二人を連れてきてくれたが、娘さんが真ん中に座って小さな声で絵本『羊男のクリスマス』を朗読し、少し年下の友達が耳を傾け、たまには笑ったりたまには真剣な顔になったりした。確信した。老若男女問わず、この空間で「自分の一作」を見つけることができることだろうと。

リトル「村上主義者」たちの朗読会

2011年に研究室のメンバーと「東大中文村上春樹研究会」を立ち上げ、多くの村上文学研究者、翻訳者と交流することができた。ちょうど設立10周年を迎えた今年、中国語圏の村上文学翻訳者の頼明珠先生、施小煒先生を招いて、記念講演会(オンライン)を開催した。施先生は1時間以上、激情あふれるトーンで『ふしぎな図書館』を中心に話をしていただいた。頼先生は「209」が印字されたTシャツを着て「村上春樹と翻訳文学」について講演をなさった。白いTシャツを着てゆっくりと言葉を発する頼先生、少女の微笑みを浮かべながらだった。お二人から感じたのは、村上文学は多分不老の霊薬かもしれないということ。村上文学を愛する人々は若さを保てている。

なるほど、forever youthful, forever weeping (Jack Kerouac)!

*朗読会の写真掲載にご快諾してくださった村上主義者のAさん、Kさん、Sさんに感謝の意を申し上げる。リトル村上主義者が、ムラカミチルドレンが、元気よく、すくすくと成長することを願って!!!

権 慧(けん・え)/早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)助教

中国出身。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、文学博士。東アジア村上春樹研究会会長。研究方向は東アジアにおける村上春樹文学の翻訳と受容。最近は中国語圏・韓国の現代日本女性作家の受容に着目している。

NHKラジオ「英語で読む村上春樹」(2013年12月)、Tokyo FM「村上RADIO プレスペシャル」(2021年9月)、TBSドキュメンタリー「解放区」(2021年11月)などに出演。

共著に『越境する中国文学――新たな冒険を求めて』(東方書店、2018年2月)。

※当記事は「WASEDA ONLINE」(2021年12月13日掲載)からの転載です。

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