Waseda Weekly早稲田ウィークリー

News

ニュース

早稲田大学と渋沢栄一【第2回】

渋沢栄一:早稲田大学を支えた功労者

大学史資料センター 常勤嘱託 江 永博(こう・ながひろ)

第1回では早稲田大学創立35周年記念祝典における渋沢栄一と大隈重信の演説を通し、渋沢と大隈および早稲田大学との関係を垣間見ることができたが、今回は渋沢と早稲田大学の関わりに焦点を当て、さらに深掘りしていく。

渋沢が直接早稲田大学に関係するようになったのは、理工科などの新設を目的とする1908年の第2期計画からである。渋沢は計画に賛同し、多額の寄付をしたため、校賓の称号が贈呈されただけではなく、自らも基金管理委員長の任に就き、熱心に各方面に対して寄付の勧誘を試みた。以来、1927年に基金管理規定が廃止されるまで、早稲田大学の「帳簿番」として、基金の使途を監督したのみならず、基金募集の際には、いつも「先づ自身の出金額を定めて、他の実業家に対して自身勧誘さるるから、何人も拒むことができなかった」という。これに対して、第2期計画の中心人物の一人である市島謙吉は「早稲田大学の盛大今日に至ったのは、翁の力に依ること決して少なくない」と謝意を表している。

1909年、渋沢は古希を迎えるにあたり、「諸事業ヨリノ引退ヲ表明シ」、早稲田大学の基金管理委員長も一時に辞任したが、後に復帰した。全68巻に及ぶ『渋沢栄一伝記資料』には、渋沢と関わりがある約160の学校・教育関連機関が記載されている。それによると、早稲田大学は、創設発起人として初期から運営に関わっていた日本女子大学校(現、日本女子大学)と並んで、渋沢が実質的に運営に関与し、尽力した数少ない学校であった。

1917年、いわゆる早稲田騒動(※)が起こると、当時病床にあった大隈は渋沢・森村市左衛門・豊川良平・中野武営の4人に調停を委嘱した。渋沢はそれを引き受け、騒動の収束に尽力し、収束後には早稲田大学の維持員および校規改定調査委員会長も務めた。早稲田騒動が収束した翌年の新旧維持員招待会の際に、大隈は次のように述べている。

「此れ全く渋沢男爵及諸君の御尽力の為に此平和を得たるものなり、今日は已に動揺を一掃して、恰(あたか)も低気圧の去りたる跡に青天を見るが如き感あるものは、渋沢男を始め諸君の賜りと厚く感謝の意を表す」

この「感謝の意」を具体的に示すため、大隈は渋沢を終身維持員に推薦した。当時の推薦リストには、ほかに高田早苗・坪内雄蔵・三枝守富・中野武営が名を連ねている。渋沢は高田・坪内ら早稲田大学の創設功労者たちと並ぶ存在に位置付けられたのである。

(※)天野為之学長の後任をめぐる紛争。

創立45周年・大隈記念講堂開館記念。(右から)渋沢栄一と大隈信常。大隈記念講堂バルコニーにて(大学史資料センター所蔵)

1922年1月10日に大隈重信は他界した。2月19日に開催された大隈の追悼会に、渋沢は病気療養中にも関わらず、大磯(神奈川県)より上京し、その席上、渋沢は「総長を失った早稲田学苑は、一段の力闘を以(もっ)て学苑の充実発展を図るべく」と説くとともに、自らも「一臂(いっぴ)の労を吝(お)しま」ないと追悼の辞を述べた。同年4月に「記念大講堂の建設」、「大学内容設備の充実」、「大隈邸宅および庭園寄付に対する返礼」を三本柱とする故大隈侯爵記念事業の計画が公表され、資金募集のために、記念事業後援会が設けられると、渋沢はその会長に就任した。校友会を事業の主体としつつも、事業の規模から見て、政財界の協力は必要不可欠だったのである。当時82歳の渋沢は高田等を帯同して、大阪・京都・神戸・名古屋を巡回し、三井、三菱の両財閥をはじめ古河虎之助、中島久万吉、浅野総一郎、徳川家達、近衛文麿らの政財界の要人から多額の寄付と協力を取り付けた。

1927年10月、創立45周年と大隈記念講堂の完成を祝う式典の際、渋沢は資金募集の責任者として謝意を述べるとともに「寄付して下さった金額は真に必要に使われた」とお墨付きを与えた。

創立45周年・大隈記念講堂開館記念。万国旗で飾られた大隈記念講堂(大学史資料センター所蔵)

1930年10月4日、90歳の渋沢は老齢のため、当時の高田早苗総長に維持員を辞任したい旨の書簡を送ったが、その末尾に「必要の場合は何なりと御相談に相応じ候間(そうろうあいだ)御含被下度候(おふくみくだされたくそうろう)」の一文があった。1929年に早稲田大学は校規を改正し、翌年維持員の総改選を行ったが、組織内に対立が生じた。改選直後の辞任は誤解を招きかねないため、当時総務理事を務めた田中穂積は渋沢邸を訪ね、引き留めた。これに対して、渋沢は任期満了を機に辞任するつもりであったが、「学校に迷惑を及ぼしてはならぬ」と早稲田大学の状況を配慮し、撤回した。その1週間後の16日に、世間の注目を引いた早慶野球戦の切符事件が起こった。大学当局は翌日、声明書を発表し、中に「危険的思想に属する一部の徒」が学生を扇動しているとする内容があり、かえって学生たちの反発を招いた。事態収拾のため、大学当局は11月1日に臨時維持員会を開催せざるを得なかった。その席上、渋沢は「当局者が学生を赤化と認められては学生を激昂せしめる恐れがあるので慎重にされたい」と大学当局をたしなめた。切符事件の翌1931年の7月に、田中は新総長に選ばれ、新体制が始まった。10月5日に、既に91歳になっていた渋沢は維持員を辞任し、翌月、この世を去った。

渋沢は、1908年以来、人生の最後まで早稲田大学に深く関わり、時に諫言(かんげん)することも辞さなかったのである。

(左から)現在の大隈記念講堂バルコニー、早稲田キャンパス正門から見た大隈記念講堂

(参照・引用文献)
・公益財団法人渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(株式会社東京堂出版、2012年)
・渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第二十七巻(渋沢栄一伝記資料刊行会、1959年)
・渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第四十五巻(渋沢栄一伝記資料刊行会、1962年)
・渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第五十八巻 索引(渋沢栄一伝記資料刊行会、1965年)
・早稲田大学校賓名鑑編集委員会『早稲田大学校賓名鑑 : 早稲田を支えた人々』(早稲田大学、2002年)
・早稲田大学大学史編集所『早稲田大学百年史』第二巻(早稲田大学、1981年)
・早稲田大学大学史編集所『早稲田大学百年史』第三巻(早稲田大学、1987年)

早稲田大学と渋沢栄一【第1回】

Page Top
WASEDA University

早稲田大学オフィシャルサイト(https://www.waseda.jp/inst/weekly/)は、以下のWebブラウザでご覧いただくことを推奨いたします。

推奨環境以外でのご利用や、推奨環境であっても設定によっては、ご利用できない場合や正しく表示されない場合がございます。より快適にご利用いただくため、お使いのブラウザを最新版に更新してご覧ください。

このままご覧いただく方は、「このまま進む」ボタンをクリックし、次ページに進んでください。

このまま進む

対応ブラウザについて

閉じる