Waseda Weekly早稲田ウィークリー

”氷上の哲学者”から早稲田の博士へ町田樹が見据えるフィギュアの未来

「引退に未練は全くない」人生とフィギュア界を見据えた決断

2014年のソチオリンピックや世界選手権で活躍し、現在のフィギュアスケートブームをけん引する存在の一人として注目を集めた町田樹さん。彼は、同年12月に突如現役引退を発表し、翌年4月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学しました。修士課程を修了した町田さんは現在、同研究科博士後期課程2年生として博士号取得を目指して研究を積み重ねています。

3歳からフィギュアスケートの厳しいトレーニングを積み重ねてきた彼は、その専門領域を、フィギュアスケートや新体操、アーティスティックスイミング(旧称シンクロナイズドスイミング)などの「アーティスティック・スポーツ(※)」に定め、著作権との関係や、文化経済学的な側面についての研究を行っています。

いったいなぜ、町田さんは競技者としてのキャリアの後、研究者としての道に進んだのでしょうか? また、研究者を目指す中で見えてきたフィギュアスケート界の「喫緊の課題」とはどのようなものなのでしょうか?

※フィギュアスケートや新体操、アーティスティックスイミング(旧称シンクロナイズドスイミング)など、音楽を伴う採点スポーツを町田さんが新たに呼称し、定義した言葉

町田さんは、2014年12月の記者会見で突如選手引退を発表し、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学しました。なぜ、アスリートとしてのキャリアを捨てて、学問の道に入られたのでしょうか?

町田
まず、私は幼い頃からフィギュアスケートの選手としてのキャリアを歩んできました。その中で、たくさんの幸福な瞬間に恵まれると同時に、多くの苦労も経験してきました。

山あり谷ありのキャリアの中で抱いた疑問や問題意識を、学術の力で解決したいと思ったのが、研究者を目指すきっかけだったんです。多くのメディアから「突然の引退」と言われましたが、自分としては、然るべき時に引退という判断をしたんですよ。
関西大学の学部時代に知った「スポーツマネジメント」という学問に興味を抱いて以来、ゆくゆくは、早稲田の大学院に入ってスポーツマネジメントを勉強したいと考えるようになりました。競技に力を注ぐ一方、およそ2年間かけて、大学院進学を準備していたんです。

ソチオリンピックで5位入賞、また世界選手権で銀メダル獲得といった成績を収めていた2014年は、町田さんにとって、アスリートとしてのピークを迎えていた時期でした。現役生活に対して未練はなかったのでしょうか?

町田
「絶頂期で辞めた」と言われるのはアスリートとしてはとても嬉しいことですが、きっぱりと決意していたので未練はなかったです。とりわけ「若年スポーツ」と言われるフィギュアスケートのメダリストは、ほとんどが10代~20代前半まで。どうしても年齢とともに、ジャンプやスピンといった競技力が衰えてしまうため、選手としての実力は下降してしまいます。その一方、本気で研究者になろうとすれば、一刻も早くその態勢に入る必要がありました。

選手引退後のセカンドキャリアを見据え、幸いにも周囲の方々の適切なアドバイスのおかげもあって、大学院進学という決断に至りました。引退から3年が過ぎましたが、今でもあの時の決断は間違っていなかったと思います。

引退発表の背後にはとても強い意志があったんですね。

町田
2013~2014年ごろは、選手としても成績が出始め、メジャーな世界に名が知られるようになった時期ですが、すでに大学院に進学して研究者を目指すという新たな目標を立てていましたので、その次なるステップに進むべく引退を決意しました。もちろん最後の年は全身全霊で競技にも向き合い、プログラムの完成に打ち込みました。

現在、マスメディアでは華やかに取り上げられるフィギュアスケートですが、実はさまざまな問題が山積しています。こうした問題を研究者の立場から発信することによって、この競技の実像を正しく一般の方々にも知ってもらう。そしてフィギュアスケートが抱える問題の解決に資するような研究をして、より良い文化として次の世代に受け渡していきたいという思いが強くありました。
選手人口、摂食障害、表現と技術…フィギュアが抱える喫緊の課題とは?

華々しいフィギュアスケートの世界は、テレビをはじめとするメディアからも多くの注目を集めています。その中にある「問題」とはどのようなものでしょうか?

町田
例えば、スケートリンクの問題はとても深刻です。スケートリンクは1980年代には全国に約750カ所ありました。しかし、2018年現在、残っているのはわずか130施設あまりなんです。

そんなに少なくなっているんですか!?

町田
また、多くのリンクは夏はプールに変わってしまいます。通年でスケートをすることができる施設は、15都道府県に27施設(日本スケート連盟HP「全国のスケートリンク」の情報に拠る)しかありません。しかも、それらのリンクは大都市圏内に偏在しているため、地域格差が大きい。多くの選手は、家の近くにリンクがあったという理由から競技生活をスタートしており、私自身も、家の近くにリンクがあったからスケートを始めました。

けれども、これだけスケートリンクが減少している現在、家の近くにリンクがある家庭なんてほとんどありません。マスコミからどんなに注目を集めても、今後、選手が増えていかないかもしれない…という深刻な問題を、第一に抱えているんです。

次世代の選手が登場してくるための練習環境が失われてしまっているんですね…。

町田
そうなんです。もう一つが、多くの女性選手が苦しむ「摂食障害」という問題です。私が知る限りでも多くの女性スケーターが苦しんでいます。一方、男性シニアスケーターにとっては、四回転ジャンプの習得という壁が立ちはだかって、しばしば深刻な怪我を引き起こしてしまいます。

しかもフィギュアスケートにとって重要な「表現力」は年齢とともに成熟していくにもかかわらず、20代に入ると男女とも身体の変化などもあり、ジャンプやスピンといった技術が落ちてしまうというジレンマも抱えてしまうんです。

結果、オリンピックや世界選手権のメダリストは、ティーンエイジャーばかりが多くなりがちです。選手として国内外のフィギュアスケートの実情を見る中で、それらが喫緊の課題だと認識したんです。もちろん私は、摂食障害の改善や怪我の治療などの医学的研究を専門とする訳ではありませんが、二十代以降の成熟した選手たちだからこそ活躍できる、アーティスティック・スポーツの競技設計を、マネジメントの問題として考究できないかと思いました。

他にも、フィギュアスケートに限らずアスリート全般が抱えるセカンドキャリア問題、スポーツとメディアの関係など、さまざまな問題が山積していることに気づいてきました。

町田さんが研究している「スポーツマネジメント」は一般に、スポーツをビジネスとして研究する学問と言われます。しかし、町田さんにとっては、ただ研究するだけでなく、問題を解決するための手段としての側面も大きいんですね。

町田
3年にわたって取り組む過程で、スポーツマネジメントという学問の本質は、「人はなぜそのスポーツに魅了されるのか」「そのスポーツが魅力的な財として世の中に存在し続けるためにはどうすればいいのか」ということを探求することであると感じています。

それを追求することによって、その競技の50年後、100年後を見据えて、責任ある提言をすることができる。まだまだ自分は大学院生の立場ですが、いずれはそんな提言によって数ある問題の一部でも解決できればという気持ちですね。
学問の道に入り感じた研究の「怖さ」と「奥深さ」

ところで、町田さんは関西大学文学部を卒業後に、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科を進学先として選択しました。なぜ早稲田を選んだのでしょうか?

町田
まず私が大学院進学を決意した頃、関西大学の大学院にはスポーツマネジメントを学ぶ専攻がありませんでした。セカンドキャリアの準備をする過程で、早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科が国内においてスポーツマネジメント研究をリードする大学院の一つであること知り、進学したいと思いました。

また私の専門は、フィギュアスケートをはじめ、新体操、アーティスティックスイミング(旧称シンクロナイズドスイミング)などの音楽を伴う採点スポーツのジャンルです。これらを私は「アーティスティック・スポーツ」と新たに呼称し定義しています。こういったスポーツを専門とするにあたっては、一般的なスポーツ研究だけでなく、幅広いアートの分野についての知見も必要になってきます。

スポーツ科学だけではなく、舞台芸術研究の蓄積があり、ここ演劇博物館などの設備も整っている早稲田大学は、私の研究にぴったりの大学だったんです。

早稲田には、スポーツと芸術という2つの強みが同時に備わっているということですね。

町田
そうですね。修士課程の頃は、スポーツ科学研究科だけでなく、文学研究科で行われていた美学者の尼ヶ崎彬先生(元 演劇博物館客員教授)による舞踊論の授業も受けていました。舞台芸術研究のリーダーの一人でもある尼ヶ崎先生の授業は、現在の研究を進めていくにあたってとても貴重な経験でしたね。

現在、町田さんはどのような研究テーマを進めているのでしょうか?

町田
アーティスティック・スポーツだからこそ起こる事象に着目して、学際的な研究(多くの学問領域を横断した研究)をしていきたいと考えています。その一つが、著作権の問題です。音楽や衣装、振付など、フィギュアスケートはあらゆる著作物を取り扱いますよね。そのような著作権をどのようにマネジメントしていけばいいのか。
またフィギュアスケートのパフォーマンス(振付)に著作権が認められた場合、これをどのように管理をしていけばいいのか? といったスポーツと知的財産権との関係を、法学の観点から研究しているんです。

また先ほどお話しした、スケートリンク減少の問題は、スポーツ経済学や産業論的な視点からアプローチしていかなければならないし、選手の若年化や摂食障害といった問題については、スポーツ医学や栄養学、心理学などの多方面からの見識が必要になってきます。

実際に研究の道に入って3年が経ちますが、いかがでしょうか?

町田
この道に進んでよかったと心から実感しています。ただ修士課程を終え、博士後期課程に進学した今、研究活動を進めれば進めるほど、学術研究という営みの中にある「怖さ」と「奥深さ」を痛感するようになりました。

「怖さ」と「奥深さ」?

町田
まず「怖さ」とは、学部や修士課程での学びは「知識を得る」という段階で済みますが、博士課程では研究の成果を学会などの公の場で発表していく上で、その一言一句には社会に対する重い責任が生じるということです。生半可なことでは「研究の成果」などと言えないですね。何よりも学問にとって必要な謙虚さを、いつでも大切にしたいと感じています。

では「奥深さ」はどのような部分でしょうか?

町田
研究にはゴールがありません。自分が解決したいという課題に対して少し近づくことができたと思ったら、また新たな課題が出てきてしまう。終着点がなく、多様性や可能性が無限に広がっているのが研究という世界なんです。肉体的な限界に縛られやすいアスリートと違って、年齢を重ねるがゆえに奥に進めるという魅力です。

町田さんの目指す、アーティスティック・スポーツを専門とする研究者は、どれくらいいるのでしょうか?

町田
メンタルやフィジカル関連の研究はすでにありますが、マネジメントの研究はほぼ皆無。そこを切り拓いていきたいと希(こいねが)っています。

研究者として、未知の分野を歩んでいこうとしているんですね。

町田
ただ、忘れてはいけないと自戒するのが、そんな未知の分野を開拓する上でも学問の大きな体系の中に存在しているということ。先人たちが苦心して積み重ねてきた学問体系をベースにし、それを全て真摯に学んだ上で、ようやく自分の研究を積み重ねることができるんです。それを忘れないで、この道を歩んでいきたいですね。
プロフィール
町田 樹(まちだ・たつき)
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程2年。1990年神奈川県生まれ。関西大学文学部卒業。2006年全日本ジュニア選手権で優勝。シニアへ転向後、2012年にグランプリシリーズで初優勝を果たし、通算4勝。2014年2月の冬季ソチオリンピックでは、団体戦でフリーに出場し5位入賞に貢献、また個人でも5位入賞。同年3月の世界選手権では羽生結弦選手に0.33点差で銀メダルを獲得。リンク上での情感あふれる表現力に加え、独特の世界観を持つことから、“氷上の哲学者”とも呼ばれた。2014年12月の全日本選手権を最後に競技活動を引退。現在は大学院生として研究に励む。専門はスポーツマネジメント、スポーツ文化論、文化経済学、身体芸術論。2017年度、日本体育・スポーツ経営学会最優秀発表賞、文化経済学会〈日本〉優秀発表賞受賞。慶應義塾大学・法政大学非常勤講師(2018年度より)、プロフィギュアスケーター、振付家、解説者としても活躍する。
取材・文:萩原 雄太(はぎわら・ゆうた)
1983年生まれ、かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。
撮影:加藤 甫
編集:Camp 横田大
取材・撮影協力:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館( http://www.waseda.jp/enpaku/


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