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「能力のない私」が世界で闘えた理由 フィギュア村主章枝、苦難の30余年

「次期オリンピックでは37歳。現役の競技者としては、もう潮時です」。2014年11月、フィギュアスケート女子シングルで現役最年長選手だった村主章枝さんは引退を発表し、28年にもわたる競技生活に幕を下ろしました。オリンピックや世界選手権など、世界の精鋭がしのぎを削る舞台で闘い、ずばぬけた表現力で「氷上のアクトレス」と呼ばれた彼女。実は2002年のソルトレイクシティオリンピックに出場した当時は、現役の早大生でした。ただ、人気と実力を兼ね備え、一見華々しく見えるその競技人生は、決して順風満帆ではありませんでした。学業との両立、けが、大会での成績不振、資金難、そして引退――。現在、フィギュアスケートの振付師として活動する村主さんは、何を考え、どう生きているのか。「私にとって選手時代は序章。今ようやくセカンドステージ」。そこには、マスメディアでは語られない“本当の村主章枝”と、必死で夢を追い続ける一人の女性の真摯な姿がありました。

――村主さんが選手を引退してから、最初にぶつかった壁は何ですか?

村主
そうですね…やっぱり引退した時には、競技生活にすごく悔いがありました。自分が目指していた目標に到達できなかったから。そのせいか仕事に対する欲があって、引退直後もすごく働いていました。体が壊れる、精神的にもおかしくなる、ってところまで。それから「自分の思いだけでは、どうにもならないこと」に対して、自分の生き方っていうんですか、どういう存在でいればいいんだろうと考えました。

2014年11月 引退を発表し記者会見で涙ぐむ、村主章枝さん(共同通信)

スケートの振付師はプログラムの構成を考えたり、選曲をしたりする仕事です。でも、その先にはコーチがいる。演技する主体も私ではなく、生徒です。みんなの温度感が合わなければ、いいものは生まれません。どんなに能力があっても、お金がなくていい環境が整えられず、いい結果が出ない子もいます。そういう状況の中で、自分がどれくらいのエネルギーや思いを懸けるか。そこが非常に難しいですね。

――村主さん自身、現役時代はコーチや振付師を選んでいますよね。自分で環境をコントロールできていたのでしょうか。

村主
コントロールしていたように見えて「やらせてもらえていた」わけですよ。私の場合、やる気がすごくあって、「自分が絶対やる」という感じ。そこが一番の長所でもあり、短所でもあった。「この人に習いたい」と思ったら、自分で手配していましたから。
だけどそれが、今思えば「やらせてもらえていた」ということなんですよね。自分が教える番になったら、そうしたくてもできない子がいる。環境があって、経済状況があって、タイミングがあって…。やっぱり、本当に強い子ばかりが集まっている「強豪の年」もあるわけですよ。それこそ羽生結弦くんみたいな天才が出てきちゃうと、万年二番になっちゃう。でも、自分は本当に運が良くて、大して能力もないのにオリンピックに行かせてもらえた。本当にありがたかった、としか言いようがありません。

――ご家族もかなり協力して、バックアップしていらっしゃったようですね。

村主
父、母には本当に頭が上がりません。フィギュアスケートは、年間2,000万円もかかる競技です。親は家が傾くまで、全てをなげうってサポートしてくれました。2006年のトリノオリンピック後、お金の問題でスケートが続けられなくなりそうになったんです。スポンサー探しから何から、すごく苦労して。その時、初めてお金のありがたさを実感しました。親は確かに文句を言いましたけど、文句を言いながらも、お金を出してくれた。もう本当に、感謝しかありません。

――村主さんならば引退後、芸能界に転身しても華々しい活躍ができたと思います。でも、やっぱり振付師の仕事が楽しいですか?

村主
そうですね。自分のエンターテインメント・ショーを作るのが人生の最終目標ですから。みんな「引退」で終わりと見るけど、私にとって選手時代は「序章」です。今ようやくセカンドステージに来たくらい。これからは自分のエンターテインメント・ショーを作って世に出していきます。もしかしたら、それはスケートという形ではないかもしれない。今のところはスケートで、と思っていますけど。

――「スケートはエンターテインメント」と捉えているんですね。

村主
はい。私には、選手としての能力がありませんでした。けれど、すごくいいご縁がたくさんあって、多くの人に支えられて、ここまで来られました。だから「自分は二の次、まずはお客さまありき」。それが私の考え方です。

――スケートは競技だから、人を楽しませるよりも、点を取る方に関心を寄せる選手も多いのではないでしょうか。

村主
その方が賢いのかもしれないですよ。競技をしているうちは、成績を上げなきゃいけないから。私も、もうちょっと点の方を追求すればよかったのに。でも、エンターテインメントにしか向いていませんでした。

――何がきっかけで「スケートはエンターテインメント」と考えるようになったんですか?

村主
最初は憧れから始まったんですが、やっぱり師匠であるローリー・ニコルとの出会いですよね。15歳の時でした。1994年に幕張で世界選手権があって、中国系アメリカ人のミシェル・クワン選手が出たんですよ。彼女は私と同い年。やっぱり注目するじゃないですか。見ていると、どんどん勝ち上がっていく。すごいな、と思いました。その彼女が突然、1996年の世界大会で少女から大人の女性に大変身して初優勝を飾ったんです。もう、全然違いました。「なんじゃこりゃ」と思って調べていったら、振付師にたどり着いたんです。それがローリー・ニコルでした。

1996年世界フィギュアスケート選手権、ローリー・ニコルがミシェル・クワンの「サロメ」を振り付けて、15歳で世界選手権初優勝。専業「振付師」の先駆けとなった

村主
当時はまだスケートの先生が生徒のプログラムを作っていた時代だから、彼女はもう最先端です。「私もこの人みたいになりたい」と思って、「振り付けをしていただけませんか」と電話でお願いしました。ローリーはセンスも、見ているところも違いました。ビデオをどっさり渡されて、「勉強しなさい」と言われてね。

ビデオのラインアップには、舞台もあれば、ミュージカルやバレエのダンスもある。今までの人生で見たこともないようなものに出合いました。「すごいな、こんな世界があるんだ」って。私はそれまで、天真らんまんなおてんば娘だったんですよ。いつも泥んこで傷だらけ、人形遊びなんかしたことない子だったわけです。それがスケートの世界に魅せられてしまった。今ではエンターテインメントなら、ずうっと見ていられます。ローリーとの出会いが、自分の人生ですごく大きな転機になったんですよね。

――すごい行動力ですね。中学・高校時代の生活はどんなものだったんでしょうか?

村主
大変でしたね。毎朝5時に起きて、朝練してから学校に通っていました。練習は新横浜スケートセンターでやっていて、学校は大船(神奈川県鎌倉市)。結構距離があるんです。練習後は車の中で着替え、朝ご飯を食べて、学校まで送ってもらう。学校は15時半くらいまでなので、終わったら速攻でまたリンクに行って夜まで練習をやり、帰ってきたら結構な量の宿題をやって寝る、という生活です。深夜0時に寝られればいい方でした。その繰り返しを中学〜高校の6年間やったんだから、すごかったなとは思います。

――その後、早稲田大学教育学部に進学しますよね。受験はどうでしたか?

村主
私の場合、高校を卒業するのが大変でした。スケート関係で欠席しても、ほとんど公欠扱いしてくれない学校だったから、出席日数が足りなくなりそうで。でも何とか卒業しました。大学には、自己推薦で入りました。入学してからは、やっぱり朝練して学校に来て、帰ってから練習して…それしかしていませんでした(笑)。でも高校時代が本当に大変だったから、それに比べれば大学は楽勝でしたね。

――村主さんは物事を俯瞰(ふかん)して観察し、言語化する能力が突出していますよね。そのクレバーさが、選手としては大きな武器だったのではないでしょうか。

村主
クレバーかどうかは分かりません。学校でも上には上がいるので。ただ、スポーツ選手はやっぱり、ある程度の頭がないと厳しいと感じます。私の高校時代は、スケートはそれほど盛んではなくて、まだマイナースポーツという位置付けでした。親ももちろん、私がスケートで食べていけるとは思っていませんでした。だから、勉強が一番、スケートは二番。「勉強をきちんとしないなら、スケートはやめてもらう」という家庭だったわけですよ。スケートの練習にかけられる時間は、すごく少なかったです。
だから私が1998年の長野オリンピックを逃した時、母はすごく悔やみました。「私が『勉強、勉強』と言わなければ、あの子はスケートに時間をかけられて、オリンピックに行けたかもしれない」と。私は逆に、勉強によって考える力が付いたからこそ、自分なりの演技ができたのだと思っています。私の感受性や感情、思いに共感して、たくさんの方が応援してくださいました。だから、勉強したことは、決してマイナスではなかったと思っています。選手としては、大して能力がなかったですけどね。

――ご自分では「大して能力がない」と捉えているんですか?

村主
いやあ、能力ないですよ。肉体的にも、センス的にも。肉体的に恵まれている人は、ちょっとトレーニングすれば、筋肉を維持できます。でも私の筋肉は忘れっぽいから、すぐなくなっちゃったり、落ちちゃったりする(笑)。音楽センスもそうです。私にはリズム感が全くありませんでした。でも優れたエンターテインメント作品を観ると、「明日も頑張って生きよう」という活力になるじゃないですか。私は「自分もそういうものを世に出していきたい」と思い続けて、ものすごい努力をしてきた感じはありますよね。それは、生まれ持った能力ではなかったと思います。

――「世界一の練習量」と言われていましたよね。

村主
一生懸命にやりました。でも「必死になって」というよりは「好きでハマって」という感じです。オタク気質だから、どんどん掘り下げて考えちゃう。…いや、難しく考え過ぎなのかもしれません。(物事を)もっとシンプルに捉えられればいいのになあ(笑)。まあ、それが長所でもあり、短所でもあるのかもしれないですけど。

――けがをした、なかなか勝てなかった、資金難でスポンサーを募ったりもした。村主さんの選手人生は、決して順風満帆ではなかったですよね。

村主
うーん…試練をもらっているところが、逆にありがたいのかな。壁にぶち当たって、気付かせてもらって、成長させてもらって。そういう環境に身を置かせてもらっていることが、本当にありがたい。「闘う場所」に居られるって、なかなかないじゃないですか。私は多分自分の力以上のところに、ポンと置いてもらえた。そういう巡り合わせ、ご縁には、本当に感謝していますね。やっぱりみんなに支えられて、自分が形成されたと思っています。

――早稲田大学には、現役のスポーツ選手や、目標に向けて頑張っている学生がたくさんいます。彼らに何かメッセージを贈るとしたら?

村主
さっきの話ともつながりますが、なんというか崖っぷちに立たないと分からないことって、たくさんあるんですよね。でも意外とみんな失敗することを恐れて、ぎりぎりまでやらないんですよ。それでもし失敗してしまっても、全然問題じゃないと思うんですけどね。失敗に対して、その後どう進むか、どう対処するかってことが大事なところで。

だから、自由にやってみてください。「人の支えがあって自分がやれている」という感謝の気持ちだけは忘れずに、ルールや枠組みにとらわれず、突き進んでほしい。それが一番だと思います。

<後編は8月2日(水)アップ予定>

プロフィール
村主 章枝(すぐり・ふみえ)
1980年、神奈川県生まれ。2003年、早稲田大学教育学部卒業。日本を代表するフィギュアスケート選手の一人。幼少期をアラスカで過ごし、帰国後6歳でスケートを始める。1994年に中学1年で国際大会デビュー。中学3年で全日本ジュニア選手権2位、初の表彰台に。高校1年では、16歳にして全日本女王に輝いた。長野五輪では出場枠が最小の一人という難関に惜しくも出場を逃すも、早大生時代に出場したソルトレイクシティオリンピック5位、トリノオリンピック4位に入賞。ほかにも、日本人初となるISUグランプリファイナル優勝、四大陸フィギュアスケート選手権3度の優勝、世界選手権3大会でのメダル獲得など、輝かしい成績を残す。世界の精鋭たちがしのぎを削る舞台において、抜群の表現力で「氷上のアクトレス」と称された。2014年11月、競技選手としての引退後は、振付師や解説者として活躍するかたわら、飾らない人柄でバラエティー番組などにも引っ張りだこ。2017年には写真集『月光』を刊行し、話題となった。
松本 香織(まつもと・かおり)
フリーライター/編集者/社会人大学院生。「ハフポスト日本版」をはじめ、いくつかのニュースメディア立ち上げに編集者として携わる。ライターとしては、カルチャー系ニュースメディア「CINRA.NET」などで活動中。現在は早稲田大学政治学研究科ジャーナリズムコースの修士1年に在学中。
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