Waseda Weekly早稲田ウィークリー

 頑固で、合理的でいて、人気者。
大隈重信の人柄は、
野望と魅力に満ちていた。

早稲田大学の創設者、大隈重信。早大生にとって最も身近な歴史上の人物ですが、その素性や功績を詳しく知らない学生も多いのでは? 今回、大隈重信没後100年を記念し、“大隈重信の人物像”を7つのポイントからご紹介。大隈が主人公の小説『威風堂々』(2022年/中央公論新社)を執筆した、歴史小説家・伊東潤さん(1983年社会科学部卒)を監修に迎え、モリナガ・ヨウさん(1992年教育学部卒)の描き下ろしイラストと共に分かりやすく解説していきます。

1

少年時代

#身長180cm以上!? #無駄が嫌い

若い頃から現実的
合理主義者

大隈重信は1838(天保9)年、比較的裕福な武士の家に生まれました。江戸時代の終盤、動乱の足音が聞こえてきた頃です。大隈がいた佐賀藩は、当時日本の表玄関だった長崎の警備を担当しており、海外の情報に触れる機会も割と多かったようです。それゆえ開明的な藩主・鍋島長正によって、独自に鉄製大砲を量産するなど、欧米の技術を積極的に取り入れるようになります。その一方、藩校の「弘道館」では、朱子学や武士の心構えを唱えた『葉隠』(※1)を基軸とする保守的な教育が行われており、大隈をはじめ多くの若者が矛盾を感じていました。

大隈が弘道館に入学したのは6歳。幼少期は温厚で心優しい少年だったようです。しかし成長するにつれてめきめきと腕力を付け、身長も180cm近くに達し、物おじしない青年になります。学業も同期の中で一番になるほど優秀でした。しかも合理的な性格で、無駄な努力を嫌うことから、徐々に弘道館の教育方針に嫌気が差すようになっていきます。

佐賀藩や弘道館の教育改革を訴える大隈は、寮生と論戦を交わします。ある時、これが弘道館を二分する殴り合いの大げんかに発展し、首謀者として退学処分に。それが災い転じて福となり、大隈は「蘭学寮」に入って洋学を習得していくのです。

この騒動があったのは、黒船を率いるペリーが来航した頃。押し寄せる列強の脅威に対し、闇雲(やみくも)に反発するのではなく、ちゃっかりその知識を身に付けようとしていたところに、大隈らしさが出ています。

(※1)佐賀藩士・山本常朝が口述した、武士の心得をまとめた書物
続きを読む
2

幕末時代

#敏腕ビジネスパーソン #佐賀LOVE

英語堪能で
商売人として長崎で活躍

青年時代の大隈は、「義祭同盟」という尊王論者の集まりに加盟し、副島種臣や江藤新平といった同世代の仲間たちと議論する毎日を送っていました。しかし20歳を過ぎた頃、閑叟に才能を見いだされ、長崎に派遣されます。ここでオランダの宣教師・グイド フルベッキと出会い、英語はもとより、西洋の近代思想を植え付けられるのです。1865(慶応元)年には、佐賀藩が創設した英語学校の「致遠館」で経営手腕を発揮。致遠館は、蘭語(オランダ語)が主流だった当時としては画期的な学校でした。

さらに、大隈が過ごした時代の長崎は、江戸、京都に次ぐ第三の都市になっていました。大隈は、そんな長崎で三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎、スコットランド出身の商人・トーマス グラバー、そして坂本龍馬らと出会い、ビジネス力を磨いていきました。英語に長じた大隈は、外国商人との交易や藩札を使った金融手法によって、佐賀藩の財政を大いに潤わせます。

そうして佐賀藩は財を築き、洋式部隊を編制。戊辰戦争では、その洋式部隊の活躍により、佐賀藩は「薩長土肥」(薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の総称。肥前は佐賀藩の旧称)と呼ばれる、明治維新への貢献度が大きな四藩の一つに名を連ねることができました。その結果、維新後は薩長土の三藩ともども政府内で主要なポストを独占。このように考えると、佐賀藩に対する大隈の貢献度は実に大きかったといえます。

気になる方はこちらもチェック↓

佐賀と早稲田-創立記念コラム(2018年10月16日公開)

歴史,ニュース,えび茶ゾーン
続きを読む
3

明治時代

#意見を曲げない #鉄道推し

鉄道敷設、太陽暦導入、富岡製糸場設立...
日本近代化の立役者だが、煙たがられる

明治時代になると、大隈は参与(※2)として新政府の枢要に参画します。幕末期に志士として活躍した面々の中で、外国人と堂々と渡り合えるのは大隈だけ。諸外国の公使に対しても気後れすることなく議論できることで、政府内でも一目置かれるようになっていきます。

政府内での地位を確立した大隈は、太陽暦の導入、郵便制度の整備、富岡製糸場の設立、灯台の設置など、多くの事業に携わり、日本の近代化の基礎を築いていきます。中でも最大の功績は鉄道の敷設です。幕藩体制の風潮が残る当時の日本は、各県が別の国家のように分断されていました。それらが鉄道で結ばれることで、地域の垣根が取り除かれ、人や物資が自由に行き交うようになり、産業や文化が一気に発展したのです。

その後も大隈は、イギリス式政党内閣の実現など、斬新なアイデアを政府内で主張していきます。しかし、急速に近代化を推し進めようという姿勢から、かつては同志だった伊藤博文らとの対立も深まり、1881(明治14)年の「明治十四年の政変」で下野。こうした流れから大隈は立憲改進党を設立し、自由民権運動をスタートさせます。今度は野党という立場から、議会制民主主義の樹立に向けて活動を展開し、1898(明治31)年には、日本初の政党内閣をつくることに成功するのです。

(※2)明治初期の政府の高官

気になる方はこちらもチェック↓

創立記念特集 今、ここによみがえる大隈重信(2013年10月14日公開)

ニュース,フォーカス
続きを読む
4

大正時代

#第8代・17代内閣総理大臣 #元祖インフルエンサー

好感度抜群。
国民から人気の総理大臣へ

1898(明治31)年に誕生した第一次大隈内閣は短命に終わりますが、大正時代になると、幕末から残る数少ないベテラン政治家として、政界からも民衆からも大きな支持を得ていきます。当時の政府では、山縣有朋や西郷従道といった薩摩や長州出身の軍人が中心にいて、軍部の権力が強まっていました。これに対し、国民の意思によって国家の舵(かじ)取りを行おうという民主主義、いわゆる「大正デモクラシー」運動が勃興します。この頃になり、原敬や尾崎行雄といった政治家が、表舞台で活躍するようになってきます。直接、間接を問わず、大隈の背中を見て育った政治家が現れてきたのです。

大隈がこの頃目指していたのは、「議会制民主主義の定着」「軍部の暴走の阻止」「人材の育成」です。軍部の勢力伸長に危機感を抱き、常に開明的で国民第一を唱える大隈は、国民から熱い支持を受けます。遠方へと出向く際は、鉄道の主要な駅に着くと、停車時間に応じた短い演説をするなど、地道に知名度を高める努力もしていました。現代でいうと、 YouTubeやSNSを駆使するインフルエンサーのような人間だったのかもしれません。

1914(大正3)年には、第2次大隈内閣を組織し、76歳にして総理大臣に就任します。第一次世界大戦では「対華二十一カ条の要求」(※3)を提出するなど、硬軟取り混ぜて外交バランスを配慮した政治を推進していきました。

そんな大隈にも最期の日は来ます。1922(大正11)年、大隈は83年の生涯を閉じました。葬儀は国民葬で行われ、会場の日比谷公園には約30万人もの民衆が集まったほど。それだけ大隈は絶大な人気がありました。しかし、その後の日本に大政治家は生まれず、軍部の台頭を止められなくなり、第二次世界大戦へと突き進んでいくのです。

(※3)第一次世界大戦中の1915(大正4)年に提出された、日本の中国への要求
続きを読む
5

プライベート

#愛妻家 #バラ好き

園芸マニアで、メロンも育成。
奥さんとも仲良し

大隈は、明治十四年の政変で下野した後、自邸を早稲田に移しています。庭園には温室や菜園を造り、園芸を趣味としていました。「花を愛する人に悪人はいない」と日頃から語っており、バラ、ラン、ヤシ、キク、メロンなど多様な植物を栽培し、盆栽も手掛けていたとされます。多くの友人が訪れたこの地は現在、大隈庭園となっています。

大隈は二度結婚しています。幕末期に佐賀で美登という女性と結婚しましたが、後に離縁します。理由は不明ですが、当時活発に長崎などを飛び回っていた大隈は、家庭を顧みないタイプだったのかもしれません。明治時代になり、綾子という女性と再婚すると、愛妻家として知られるようになります。再婚相手の綾子は、度量が大きく、几帳面(きちょうめん)な性格で、大隈の行くところには必ず付き添うビジネスパートナーのような存在でした。大隈の活躍は、綾子によって支えられていたと言っても過言ではないでしょう。

気になる方はこちらもチェック↓

なぜここにある!? 大隈庭園の銅像・建造物(2018年10月15日公開)

文化,歴史,ニュース,フォーカス
続きを読む
6

交友関係

#福澤と親友

実は、福澤諭吉とも仲良し

慶應義塾大学の創設者・福澤諭吉は、明治時代に西洋文明を普及させた啓蒙(けいもう)思想家です。現在、早稲田と慶應はライバル校とされることが多いため、大隈と福澤も対立関係にあったように思われがちですが、実はその逆。大隈と福澤は互いの自宅を行き来するほど交流がありました。家族を交えて酒を酌み交わすこともあり、大隈は「ほとんど親族同士の懇意さ」(※4)だったと語っています。二人は気が合っただけでなく、開明的な思想の持ち主として相通ずるものがあったのでしょう。野党政治家となった大隈に好意を持った福澤は、アドバイザーのような役割を果たしていきます。

岩崎弥太郎との関係も明治時代まで続いています。海運業の成功によって三菱という大財閥を築いていた岩崎は、立憲改進党の後援者となりました。また、大隈は実業家の渋沢栄一とも交流があり、大隈の自邸が火事で焼けた際に、渋沢は無抵当で資金を援助しています。こうした財界との強い関係も、政府から離れた場で一時期活動した大隈を支えたのでしょう。

政争の中を生きた大隈ですが、たとえ敵対していても「個人の関係は別」という割り切りがあったようです。自身を政府から追放した伊藤博文を早稲田大学の演説に招いたり、大隈を殺そうとして爆弾を投げつけた活動家・来島恒喜(直後に自害)の供養料を毎年払ったりと、政治的な立場と個人的な感情を切り分けて考えられるのが大隈でした。

(※4)早稲田大学編『大隈重信演説談話集』岩波書店 196p

続きを読む
7

教育

#教育マニア

早稲田大学を創設!
“早稲田らしさ”の原点は大隈から

早稲田大学の前身となる東京専門学校は、1882(明治15)年に創設されました。明治十四年の政変の翌年なので、大隈が政府の中枢にいる頃から創設の準備をしていたと分かります。当時、官僚や法律家の養成を目標とする官立大学が多く誕生する中、学問の独立を目指し、さまざまな方面に進む学生が自由に学べる私学を創設したことは、後々まで大隈を支える人材の源となっていきます。

しかし、下野しても政治家であり続けた大隈は、教育に政治的なイデオロギーを持ち込むことを嫌い、あえて大学の式典などに参加しませんでした。それでも数少ない演説の中には、大隈の生涯を象徴する言葉が残されています。以下、1919(大正8)年、始業式の演説です。

「早稲田大学は学問を独立させようという主義の下に成立ったのである。即ち独立の権利、自己生存のためには侵すべからざる権利、奪うべからざる権利を得ようというのである。自己が怠けてはこの権利を得ることが出来ない。これを棄ててはならぬというので、大なる義務を自覚して、そうしてこの早稲田大学の独立が成立ったのである」(※5)

現在の「自由」「独立」「在野」といった早稲田のイメージは、当時から受け継がれていることが分かります。

(※5)早稲田大学編『大隈重信演説談話集』岩波書店 150p

気になる方はこちらもチェック↓

学の独立と進取の精神-創立記念コラム(2019年10月21日公開)

歴史,ニュース,えび茶ゾーン
続きを読む

「新しい時代こそ、大隈重信に学ぶべき」

(歴史小説家 伊東 潤)

大隈重信について、私も早稲田出身なので親しみはありました。しかし、学生時代から関心があったかというとそうでもなく、「キャンパスに銅像があるな」「創設者なんだ」というイメージしか持っていなかったのも事実です(笑)。

大隈は、主人公としてドラマや歴史小説で取り上げられたことが少ない人物でした。派手な戦闘シーンや恋愛要素が乏しいために、極めて主人公にしにくいからでしょうね。また、手腕を発揮したのが外交や財政といった難解な領域なので、説明が多くなり、物語にしづらいこともあります。ただ、大隈の実像を知ってもらうためには、この辺りの功績をしっかりと描く必要があります。『威風堂々』では、大隈の事績を忠実になぞりながらも、力強い人間ドラマとしていきました。

将来を担う皆さんにとって、大隈の生き方から学ぶことは多いと思います。私が育った昭和の時代は、“寡黙な男”が評価される時代でした。西郷隆盛が今でも英雄視されるのは、そうした時代背景もあったからでしょう。しかし、現代はグローバリズムの時代です。誰もが、自分の意見や考えを気後れすることなく世界に発信していくことが求められています。だからこそ、かつては「口舌の徒」などと揶揄(やゆ)された大隈を、見直すべき時期になっていると思いますし、その生きざまに学ぶことが多くあると思います。社会に飛び立つ前に、大隈の考えや生涯について学んでみてはいかがでしょう。

小説『威風堂々』(上・下)

名君と謳(うた)われた佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)に、その才能を見いだされ、激動の幕末へ乗り出した大隈重信。明治維新後の国会開設、政党政治移行、内閣総理大臣就任、早稲田大学創立など、後の日本の礎を築いた偉人の生涯を描く歴史巨篇(へん)。

> 購入はこちらから(Amazonサイトへ)
続きを読む

歴史小説家
伊東 潤(いとう・じゅん)

1960年神奈川県生まれ。1983年社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て、2007年『武田家滅亡』(角川書店)で作家デビュー。2013年、『国を蹴った男』(講談社)で第34回吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』(光文社)で第4回山田風太郎賞受賞。主な著書に『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』(PHP研究所/第1回本屋が選ぶ時代小説大賞)、『峠越え』(講談社/第20回中山義秀文学賞)、『義烈千秋 天狗党西へ』(新潮社/第2回歴史時代作家クラブ賞[作品賞])」など。2022年『威風堂々』(中央公論新社)を上梓。

イラストレーター・絵本作家
モリナガ・ヨウ

1966年東京都生まれ。1992年教育学部卒業。在学中は早稲田大学漫画研究会に所属。細密で親しみやすいイラストルポや図解で幅広い読者の支持を受けている。主な著書に『築地市場 絵でみる魚市場の一日』(小峰書店/第63回産経児童出版文化賞・大賞)、『図解絵本スカイツリー』(ポプラ社)、『モリナガ・ヨウのプラモ迷宮日記』(大日本絵画)など多数。近刊は『らんらん ランドセル』(めくるむ)。

監修 
伊東潤

イラスト 
モリナガ・ヨウ

取材・文
相澤優太(2010年第一文学部卒)

編集
株式会社KWC

デザイン・コーディング
株式会社shiftkey

facebookアイコン シェアする twitterアイコン ツイートする

公式アカウントで最新情報をチェック!

Page Top
WASEDA University

早稲田大学オフィシャルサイト(https://www.waseda.jp/inst/weekly/)は、以下のWebブラウザでご覧いただくことを推奨いたします。

推奨環境以外でのご利用や、推奨環境であっても設定によっては、ご利用できない場合や正しく表示されない場合がございます。より快適にご利用いただくため、お使いのブラウザを最新版に更新してご覧ください。

このままご覧いただく方は、「このまま進む」ボタンをクリックし、次ページに進んでください。

このまま進む

対応ブラウザについて

閉じる