Waseda Weekly早稲田ウィークリー

夢と未来〜「原動力は人との出会い」 若手起業家が歩んだ道とこれから〜

学生時代はこれから社会へ羽ばたくための大切な準備期間。ですが、コロナ禍を経て世の中の価値観ががらりと変わり、自分の夢ややりたいことが見つからずに悩み、目標があってもなかなか踏み出せずにいる人もいるのではないでしょうか。

今回インタビューした平原依文さんは、2016年に早稲田大学国際教養学部を卒業後、「世界中の境界線を溶かす」という夢をかなえるために起業。「グローバル」「SDGs×教育」を軸にしたさまざまな取り組みを通して、国境と世代を越えた学びや持続可能な社会を実現するためのビジネスモデルを追求しています。

そんな平原さんが夢をかなえていく中で、どんな道のりを歩んだのでしょうか。多様な文化・人の価値観に触れた留学生時代や、世界と日本について学びが深まった大学生時代、現実に直面しながらも夢に向かって走り始めた社会人としての経験について伺いました。どんなときも前向きに進んできた平原さんの歩みをモチベーショングラフと共にたどります。

PROFILE

平原 依文IBUN HIRAHARA

World Road株式会社 共同創業者/HI合同会社 代表
2016年早稲田大学国際教養学部卒業。ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社とプロノイア・グループ株式会社で働いた後、2019年にWorld Road株式会社を創業。2022年にはHI合同会社も設立し、両方の会社で教育を軸に、国境や世代などさまざまな境界線を 溶かしていくための事業を推進している。中国、カナダ、メキシコ、スペインへの留学経験がある。

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MOTIVATION GRAPH

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「教育を変えたい」。留学での経験と出会いを通して明確になった想い

早稲田キャンパス3号館にて

――平原さんは、18歳までに3カ国での留学経験があるそうですね。最初の留学は8歳のときで、当時同じクラスだった中国人の女の子との出会いを機に、単身中国へ行かれたとか。環境の変化には、すぐに対応できたのでしょうか?

中国では現地の全寮制の小学校に入ったのですが、最初はストレスとの闘いでした。文化が異なる国での寮生活でそばに家族はいないし、言葉が分からない上に食事や生活にも慣れなくて、500円玉くらいの大きさのハゲができたり、栄養失調で爪が真っ白になったり…。

そんな状態が3カ月くらい続いてつらかったですし、「みんなは中国人で私は日本人だから、一生分かり合えない」と思い込んで、前に進めずにいました。

でも、中国で出会った先生に「相手を変えるのは難しいから、まずは自分が変わることが大事なんじゃない? あなたはどうしたいの?」と言われたんです。そこからは、「そうか、日本には日本のルールや価値観があるのと同じように、中国にもあるんだ。それなら、私が環境に合わせたり、相手の視点に立ったりして考えよう」というマインドに変わっていきました。

――小学生で、早くもそんな気付きを得ることができたのですね。

はい。それ以来、どこの国に行っても順応できるようになりました。「知らない場所に来たんだから、これまでの当たり前をいったん忘れて、何事もゼロから学ぼう」と。最初は居心地が悪いのは当たり前で、来たからには楽しもうという精神になりましたね。そう思えるようになってからは、ストレスを感じなくなりました。

――その後もカナダとメキシコへ留学されていたそうですが、日本の大学に進学しようと思ったのはなぜですか?

当初はアメリカの大学に進学しようと思っていたのですが、ある出会いがあって、その考えが変わりました。2011年に父が末期がんだと分かって手術をすることになり、3月11日に留学先だったメキシコから帰国したときのことです。

――2011年3月11日というと、東日本大震災が起きた日ですよね。

そうなんです。ほとんどの公共交通機関は止まっていて空港で足止めされてしまったので、翌日、父のいる病院に少しでも近づきたい一心でヒッチハイクすることにしました。無事、車に乗せていただけたのですが、運転していたおばあちゃんから、「あなたが留学していたメキシコだったら、知らない人の車に乗れた?」と聞かれたんです。

「戦後、私たちが次世代のためにどうやって今の平和な日本をつくったのか、若い人たちにもっと知ってほしい」とも言われました。もともと「教育を変えたい」と思ってはいたのですが、その言葉を受けて、日本のことをもっと知った上で世界に認められるような教育システムをつくっていきたいと思い、日本の大学で学ぼうと思うようになりました。

――そんな印象的な出来事があったのですね。そもそも、「教育を変えたい」と思ったきっかけはなんだったのでしょうか。

一番大きなきっかけは、12歳から留学していたカナダで受けた「ライフプランニング」の授業です。同級生の前に立って、高校を卒業したら何をしたいかを発表したのですが、私が自信を持って「高校を卒業したら大学に行きます!」と言ったら、「なんで大学に行くの?」と"なんでなんで攻撃”が始まって(笑)。

そのときまで大学へ行くことが目的で、それが当たり前だと思っていました。教育に関わる何かをしたい、と漠然と考えていたけれど、同級生からの本質を突くその問いを受けて、理由を深掘りしていなかったことに気付かされました。要は、自分の軸がなかったんです。

希望する進路のために大学に行くのも大事なのですが、その前に子どもたち一人一人が自分の考えの軸を持つことができるよう、教育を通じて育むことが社会全体の責任じゃないか、と次第に思うようになりました。

カナダ留学時の平原さん(右から2人目)

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世界と日本の文化への理解を深めた大学時代

――進学先に早稲田大学国際教養学部を選んだのは、なぜでしょうか?

大学を調べていたときに、早稲田大学国際教養学部は多様性をとても尊重していることを知ったんです。当時は、自分がどういう方向性で教育を変えたいのか具体的には分かっていなかったので、まずは自分自身の興味をさらに深く知るためにも幅広い知識をつけて、経験を積みたいと考えていました。

国際教養学部には多様な授業があって、まさにリベラル・アーツを学べる場だと感じました。また、個性あふれる先生ばかりだったのも決め手でした。大学のWebサイトで先生方の研究内容を見てそこから調べていくと、自分の研究テーマに誇りを持っていて、ワクワクしている気持ちがすごく伝わってきたんです。

――実際に入学されてみて、いかがでしたか?

一緒に学んだ学生は、本当にさまざまなバックグラウンドを持っていました。例えば、戦争についての授業があると、出身地によって全く考え方が違うんです。でも、これが正しい・間違っていると単純に判断するのではなくて、「自分はこういう内容で歴史を教わっていて、今の私はこう思う」と建設的に対話できたことがすごく新鮮でした。語学の授業でも、先生方はただ文法を教えるだけではなくて、その国の文化やはやっていることなど、背景も伝えてくれました。

――国際教養学部は、1年間の海外留学が必須ですよね。平原さんは、スペインへ留学されたとか。なぜスペインを選んだのですか?

大学でカタルーニャ地方出身のスペイン語の先生と出会って、カタルーニャに興味を持ったんです。留学先のバルセロナ大学では社会学を勉強したのですが、ヨーロッパ圏の学生たちが歴史に対して多様な意見や視点を持っていたことと、それをオープンに話せる環境があることにも驚きました。

ちょうど留学が始まったときから、カタルーニャ州の本格的な独立運動が始まって、大学が一時休校になりました。そのとき、ヨーロッパ中から集まっていた留学生が有志で、「カタルーニャ州は独立すべきなのか、すべきでないのか」という対話の会を設けていて、それぞれの視点から議論が行われていたことも、新たな学びとなりました。

スペイン留学時の平原さん(右端)

――貴重な経験をされたのですね。大学では、どんなゼミを選択されましたか?

本村凌二先生※1のローマ史を学ぶゼミに入りました。本村先生のことは、もともとメディアで拝見していて面白い先生だなと思っていたのと、ローマ時代から人がどう変わってきたのかに興味があって選んだんです。

ゼミでは、ローマ時代の教育や生活、恋愛事情などについて学びました。結局、ローマ時代から人は根本的には変わっていない部分がたくさんある反面、時代ごとに変化していく部分もある。時代を変えられるかどうかはその時代の人次第。それが分かったとき、私は今の時代をどう変えたいんだろう、と考えるようになりました。

※1.当時、国際学術院特任教授・2018年退職

――では、卒業論文はローマ史をテーマに?

それが、ローマ史の教育について学ぶうちに日本の教育の歴史について興味が湧いてきて。そもそも、日本の教育を学んでどう変えていけばいいのかを見つけるために早稲田に入学したので、原点に立ち返ることにしたんです。

日本の教育の歴史を振り返って気付いたのは、日本人は昔から「ものづくり」が得意な一方で、つくったものやサービスをどう展開するかという「ことづくり」が苦手だということでした。

ことづくり上手な人を育むためには、自分の軸を持って新たな仕掛けを起こしていけるような、起業家精神を持った人を教育で増やしていくことが必要だ、という結論に至りました。この卒業論文が、今の私の活動の原点になりましたね。

早稲田大学卒業式の日の平原さん(左から2人目)

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「国境や世代間の境界線を溶かしていきたい」。その一心で起業した平原さんのマインドと取り組み

――卒業後はジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社(以下、J&J)に入社されたそうですね。関心があった教育の道に進まなかったのはなぜですか?

父ががんで闘病したことを経て、「父のような人を増やしたくない。治療の選択肢を広げたい」と思い、一度方向転換をしたのが理由です。J&Jはグローバルカンパニーで学べることも多く、がんの治療薬を研究していたので入社しました。

そこでは、デジタルマーケティングの担当として働き、ビジネスパーソンやプロフェッショナルとしての基礎を教えてもらいました。本当に大好きな会社だったのですが、もともとやりたかったことは教育事業で、そのために起業しようと高校時代から考えていました。また、ここで培ったスキルを基に教育に貢献したいという思いが強まったため、当時担当していたプロジェクトが終了したのと同時に退職したんです。

平原さんが早大生の頃によく過ごした、早稲田キャンパス11号館1階のファミリーマート前

――その後はどうされたのですか?

大学時代に日本でアルバイトをしていたスペイン料理屋さんで、グーグルの元社員のピョートル・フェリクス・グジバチさん※2と出会ったんです。彼の経営するプロノイア・グループを手伝わないか、と声を掛けていただいたので、入社することにしました。プロノイア・グループは「誰もが自己実現できる社会」を理念として掲げるコンサルティング会社なので、教育事業で起業するにあたり、経営について学びがあると思ったんです。

そこでは、経営に対する考え方や組織運営のあり方を教えてもらいました。プロノイア・グループを退職した後は、2019年に25歳でWorld Road株式会社を起業しました。

※2.プロノイア・グループ株式会社 代表取締役 ・株式会社TimeLeap 取締役

――World Road株式会社では、「SDGs×教育」を事業の軸とされていますが、なぜSDGsに注目されたのでしょうか。

まず、私はそれまでの留学経験から、国籍や人種など、いろいろな境界線があることに気づきました。境界線はさまざまな社会的意図や歴史的背景があって生じていて、アイデンティティの一つでもあるので、簡単に「なくす」ことはできない。でも、「溶かす」ことならできるんじゃないか、と思いました。そこで、「境界線を溶かす」ような教育を実現したいと考えたんです。

そんな中、2018年の青年版ダボス会議「One Young World」※3に日本代表として参加したとき、世界190カ国以上から来ていた約2,000人の同世代の人たちが、SDGsを自分たちの課題として捉えて事業をしていることを知りました。

※3.国際的な課題について、18~30歳の学生や社会人が各業界のリーダーと議論するイベント

オランダで開催された、青年版ダボス会議に出席時の平原さん(左端)

「確かにSDGsを全て達成できれば、境界線のない社会が実現できる」と感じて、それなら「SDGs×教育」を軸に事業を展開しようと決めたんです。それで、青年版ダボス会議で出会って意気投合した市川太一と一緒に会社を立ち上げ、事業をスタートしました。

――World Roadの取り組みについて教えてください。

World Roadでは、ミッションとして「地球をひとつの学校にする」を掲げ、世界中の社会起業家と日本の子どもたちをオンラインでつなぐ育成プログラムを実施するなどしています。

静岡市役所職員に対して、講師としてSDGsに関する研修を行う平原さん

2021年には、世界の人たちの社会課題につながる活動を紹介する『WE HAVE A DREAM 201カ国202人の夢×SDGs』を出版し、2022年にはディスカバリーチャンネルの協力のもと、ドキュメンタリー映像を制作して上映会もしました。

『WE HAVE A DREAM 201カ国202人の夢×SDGs』(いろは出版)

――取り組みの幅が広がってきているのですね。起業当初は、やはり苦労されたのでしょうか?

私の場合、「若い女性」というだけで経営ができないんじゃないかと思われてしまうことがあって、そこは起業してからずっと苦労しています。それに、2019年の起業当時はSDGsを知らない人がほとんどだったので、企業に全然相手にしてもらえなかったんです。若者の遊びの延長だと思われてしまってなかなか事業につながらず、会社に全くお金が入ってきませんでした。

でも、そもそも企業は何かしらの社会課題を解決するために生まれているはずなので、それをもう一度見直してしっかり取り組んでいきませんか、と諦めずにコミュニケーションを取り続けました。半年間は毎日のように企業に営業のメールを送り、ようやく「じゃあお願いします」と言ってくれた企業さんが現れたときは、すごくうれしかったです。その実現ができたのと同じくらいのタイミングで、メディアでもSDGsが取り上げられるようになり、少しずつ事業が軌道に乗り始めました。

――その半年間は難しい状況だったと思いますが、モチベーションはどう保っていたのでしょうか。

「失敗は成長痛」だと考えているので、基本的にモチベーションは落ちないんですよ(笑)。私が1番怖いことは、大切な人の死です。大学を卒業してすぐに父が亡くなったので、これ以上怖いことはないと思うようになりました。

企業から、「もう来なくていいですよ」と言われたこともあったのですが、来なくていいという内容のメールをこんな長文で送ってくださるんだから、きっと何かしらの思いはあるんだなと。気持ちはあるけれど、タイミングが合わなかったとか、ビジネスに結び付かないとか、何か理由があるんじゃないかと考えるようにしていました。その上で、その障壁を謎解きゲームみたいにクライアントと一緒に解決していこう、とポジティブに捉えていました。

――常に前向きに捉えていたのですね。そして2022年には、もう一つの会社として「世界中の境界線を溶かす」ことをパーパス(目的)としたHI合同会社を起業されたそうですね。

はい。世の中のさまざまな境界線を溶かすための活動をする中で、世代間の境界線も気になってきたんです。HIでは、学生と企業が一緒になって社会課題を解決するプロジェクトに取り組むことで、世代間の境界線を溶かし、次世代がもっとチャレンジできる環境づくりを目指しています。

HI合同会社のパーパス(目的)と事業の軸

具体的には、学生と企業が一緒に社会課題を解決する事業を考えたり、企業の事業に関するプレゼンテーションに対して学生がフィードバックしたりする「リバースメンタリング」に取り組んでいるんです。企業は次世代からの生の意見を聞きながら一緒に事業づくりができるし、学生は企業の経営課題について学べます。オーナーシップを持って企業とビジネスづくりができるので、双方にとって大変メリットのある取り組みだと思っています。将来的には、HIから学生起業家をどんどん輩出していくことが目標です。

HI合同会社のメンバーと平原さん(前列右)

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原動力は人との出会い。「多くの人に会い、多くの挑戦をしてほしい」

――さまざまな活動をされてきていますが、平原さんを動かす原動力はなんでしょうか?

日々、出会う人たちですね。その方々が私に使ってくれた時間や投げかけてくれた問いのおかげで、今の私がいます。それをしっかり社会に返していきたい、という思いが一番大きいです。

あとはもう一つ、何かあったときに必ず思い出す言葉があって。父が亡くなる2日前に「どんな大人になってほしい?」と聞いたら、「そのままでいて」と。「あなたが自分らしく夢を追いかけて笑っている姿がお母さんの笑顔につながって、さらにあなたがこれから接する人たちの笑顔にもつながるから。とにかく今の笑顔のままでいられるような人でいて」と言われたんです。父には社会人になった姿を見せられませんでしたが、その言葉がいつも頭をよぎります。

社会課題を解決する前に、まずは自分自身が幸せであることが何よりも大切で、そのほうが活動も続くと思っています。

――平原さんは早くからやりたいことを見つけて、現在も目標に向かって突き進んでいます。それを見つけられたのはどうしてだと思いますか?

その時々で出会った方たちが、私のふわっとした夢を言語化してくれたからです。例えば、中国で出会った先生のおかげで教育に携わりたい、先生になりたいと思うようになりました。カナダでは、どんな先生になりたいのか、どんな教育をしたいのか聞いてもらえる機会があった。

そして、いろいろな国や世代の人と出会って話すことで、境界線が対話を通じで溶けたと実感できる瞬間が多々ありました。そのおかげで、自分の思いを深めていけたんです。

――目標を見つけるには、いろいろな人と出会うための行動を自ら起こしていくことがカギになりそうですね。大学生が、学生時代にやっておいたほうがいいことは何かありますか?

とにかく自分の気持ちに素直でいることが大切だと思います。何か一つのことに絞るのではなく、多くの人に会い、多くの挑戦をしてみること。学生だからといって、自分で自分に制限をかけないでほしいですね。

長い人生の中で見ると、就職活動は一つの「選択肢」でしかありません。だからこそ、自分の人生のための「選択肢」を選んでほしい。例えば、世界一周旅行に行くことも、留年して自分探しをすることも、起業することも、もちろん就職することも、全部正しい選択だと思うんです。もし、どうしていいか分からない人がいたら、まずは自分の直感で思うままに動いてみてください。

――学生のうちからキャリアプランを考えておくことについては、どう思いますか?

いいことだと思います。後から変わる前提でも構いません。就活もキャリアも思い通りにいかないのが人生ですから。

ただ、キャリアプランがあったほうが目指す方向が明確になって前に進みやすいタイプもいれば、プランがあると焦って空回りしてしまうタイプもいるので、あえてつくらないのも一つの方法かもしれません。自分はどちらのタイプなのか、まずはそこから考えてみてはどうでしょうか。

――やりたいことや目標があっても、挫折してしまうことはあると思います。そういった場面に直面したとき、平原さんはどうやって乗り越えていけばいいと思いますか?

私がしている予防策や対処法は二つあって、一つは自分への手紙です。自分への手紙を毎日書いて、1年が終わり、年末の疲れが取れた年明けくらいのタイミングで読み返して、自分はこんなに頑張ってきたんだなってすごく褒めるんです(笑)。

もう一つは、信頼できる友達とか、周りにいる人にフィードバックをもらうことです。自分の強みや弱みがはっきりするし、鍛えたほうがいい部分や逆に追求しなくていいことも見えてくる。だから、周りの人に自分について客観的な意見を聞いてみるのもありだと思います。

――では、最後にご自身のこれからの夢についてと、早大生へ向けてメッセージをお願いします。

夢はたくさんあって、ずっと構想している「境界線が溶けた」学校を海外につくったり、そのために海外移住もしたりしたいですね。その夢に向かって、これからも前向きに進んでいきます。

大学生の皆さんはまだ、やりたいことが見つからなくてもいいと思うんです。そのときの状態として受け入れたらいい。でも、もし見つけるなら、無意識でついやっていることに目を向けてみてもいいかもしれません。それって自分が本当に好きなことだと思うので。

仮にやりたいことが見つかったけれど、一歩踏み出せないとか、周りの意見が気になることがあっても、自分を信じて自分の好きなことを追求してください。そうすると、途中で応援してくれる誰かがきっと現れます。それを信じて、ぜひ進んでいってもらえたらと思います!

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VISION ー夢と未来ー

「夢はたくさんある」という平原さんのビジョンについて、コメントをいただきました。

ニュージーランドに移住する
私が世界で一番好きなニュージーランドのクイーンズタウンに移住し、現地で学校経営をするための準備を進めるなど、世界中の人々と仕事をしたい。

学校の経営を始める
昔からの夢だった、国籍・年齢・性別関係なく、誰もが「先生」であり「生徒」になれる、境界線が溶けた学校をニュージーランドに設立する。子どもから大人まで通える、これまでの「学校」という概念を超えた場所をつくりたい。

バルセロナでレストランの経営をする
週ごとにシェフが変わるレストランを経営したい。旅人が1週間限定のシェフとして、バルセロナの食材を使って自国の料理を振る舞い、料理を通じて文化体験ができるようなレストランをイメージ。

牧場経営を始める
ニュージーランドか日本で、子どもも大人も「牧場ステイ」を通じて動物と触れ合い、命の大切さとはかなさを学ぶ牧場を経営する。

編集・デザイン・コーディング サムライト株式会社
取材・文 末光京子(1998年理工学部卒)
撮影 井手勇貴

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