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特集

日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【後編】

【2019年度創立記念特集】

多難の船出となった新紙幣制度

1.渋沢栄一の登場と大隈重信

大隈記念講堂の回廊に座る渋沢栄一。1930年ごろ(大学史資料センター)

【前編から続く】1871年の「日本円」誕生を一つのマイルストーンとして、近代的貨幣制度が整備されていったが、それと共に近代的紙幣制度の確立もまた大きな課題であった。それを担ったのが、1872年に大蔵省紙幣寮の初代紙幣頭となった渋沢栄一であった。

2024年から一万円紙幣の顔となる渋沢の経歴は一風変わっている。渋沢は埼玉県の農民出身であり、一時期は尊攘(そんじょう)派の志士として活動したが、一橋慶喜に仕官して幕臣となる。パリ万博を契機として、徳川昭武の留学に同行し、倒幕により帰国する。帰国後、慶喜を慕って駿府に赴いたが、駿府藩への仕官は断り、同地で「商法会社」という民間の商会を創設し、その頭取となった。

ところが1869年末に新政府から出仕命令が下り、大蔵省租税正(租税司長官)に任命された。一度は任を受け入れた渋沢だったが、旧主・慶喜への思いや駿府での商業活動へのこだわりから、上役である大蔵大輔・大隈重信に辞職を申し入れた。それに対して大隈は次のように意見した。

「創成時代に於ける好個の手腕を発揮する位置であることを力説すると共に、大隈さん一流の筆法を以て、それが啻(ただ)に国民に尽す当然の道である計りでなく、真の意味に於いて慶喜公に対して忠義を尽す所以である事を力説されたのである。」

大隈の慰留に対して「実はグウの音も出なかった」と、渋沢は回想している(『渋沢栄一自叙伝』)。渋沢は大蔵省にとどまり、伊藤博文や井上馨らと共に大隈を支えたのである。

2.紙幣制度の混乱の打開に向けて

(1)山城淀藩札(明治期発行)

さてここで、紙幣について前編で書いたことも含めておさらいしておこう。1971年以前の通貨は、金属貨幣(本位貨幣)の素材価値が通貨価値と同一であると想定されていたことは既に述べた。紙幣とはこの金属貨幣の代わりであり、紙幣はその分の本位貨幣に交換できることになっていた。これを兌換(だかん)紙幣という。実際には、改鋳(かいちゅう)によって低品位になった貨幣や本位貨幣に交換できない紙幣(不換紙幣)も流通していたが、ここでは触れない。

近世において幕府は紙幣を発行しなかった。しかし諸藩は、藩内の通貨不足や財政難の打開のために藩札(写真1) を発行した。この藩札は藩内限りで通用することが原則とされ、幕府の発行する金銀銅貨と兌換(だかん)できることになっていたが、次第に兌換できなくなっていった。これが日本の紙幣の源流とされている。ただし、藩札の形状は縦長で印刷も粗雑、贋造(がんぞう)も比較的容易で、現在の紙幣とはあまり似ていなかった。

明治維新後、新政府も諸藩も財政に苦しんだ。諸藩は藩札を増刷し、貨幣贋造(がんぞう)に手を染める場合もあった。新政府の管轄下になった府県は府県札を発行した。新政府は貨幣改鋳を実施したが、貨幣の品位は旧幕時代にも増して低下した。また大隈の前任者である由利公正の提案により、不換紙幣である太政官(だじょうかん)札を大量に発行した(写真2)。大隈も当初は不換紙幣発行を引き継がざるをえず、民部省札を発行した。太政官札や民部省札は藩札にならったもので、その形状はやはり縦長で印刷は粗悪、藩札同様に贋造することが容易であった。この時期、藩札・府県札・太政官札・民部省札など、不換紙幣が大量に発行・流通していた。このような状況はインフレを助長するだけでなく、紙幣流通そのものを混乱させていた。

(2)太政官札(10両)

混乱を終息させるにはどうしたらよいか。大蔵省は紙幣の統一を目指した。1870年に、北ドイツ連邦フランクフルトにある印刷会社に紙幣印刷を依頼し、1871年末に受領、創設間もない大蔵省紙幣寮が翌1872年に紙幣へ押印し、発行した。これは「新紙幣」または「ゲルマン紙幣」と呼ばれ、当時としては精巧な印刷で贋造困難なものであった。この新紙幣と、粗雑かつ贋造品も混じっていた藩札・府県札・太政官札・民部省札などとを交換し、紙幣の統一を図った。しかしこの新紙幣(写真3)も、政府発行の不換紙幣であって、藩札の伝統を引き継いだ縦長の形状であった。この時の紙幣寮の責任者が、初代紙幣頭(長官)であった渋沢栄一である。とはいえ、この紙幣の発行は、渋沢の就任以前から決まっていたのだが。

(3)新紙幣(10円)

3.「国立銀行券」の登場

一曜斎国輝『東京海運橋 第一国立銀行』(『第一銀行史 上巻』より)。1873年に創設された

こうして発行されたゲルマン紙幣だったが、政府は正貨と交換できる兌換紙幣の発行の必要性を認識していた。1869年より、通商司が管轄する東京・大阪などの為替会社に兌換紙幣としての為替会社紙幣を発行させたが、結局これらの為替会社は経営不振に陥ってしまった。また1871年、大蔵省は正貨と兌換できる大蔵省兌換証券を発行したが、1872年には正貨兌換をとりやめてしまった。

近代的な意味での「銀行」が発券した最初の紙幣は、「国立銀行券」であった。前編で触れたように伊藤は1870から1871年にかけてアメリカを視察し、民間に「国立銀行」を設置させ、国立銀行が兌換銀行券を発行する制度の創設を提唱した。これをうけて初代紙幣頭・渋沢が制度設計にあたり、1872年に「国立銀行条例」が公布された。民間の国立銀行が続々と設立される──という現代人にはややこしい(そして試験に頻出する)事態の責任は、米国の「ナショナル・バンク」を直訳してしまった伊藤と渋沢にあると言って良い。

ともあれ国立銀行は、通常の銀行業務を営むとともに、銀行資本の60%にあたる額の「政府紙幣」を政府に納入し、政府はそれと引き換えに「金札引換公債証書」を交付、これを抵当として国立銀行券を発券し、資本の40%は正貨(本位貨幣)として、それを兌換準備金に充てることになった。ここに、金融機関としての国立銀行が兌換銀行券を発行する近代的な紙幣制度が創設されたのである。

(4)第一国立銀行紙幣(10円)。青で囲んだ部分が渋沢の署名

1871年、ニューヨークの紙幣製造会社に新銀行券の製作が発注された。この銀行券(写真4)は、従来の紙幣とは異なって、横長の形状になった。1873年には三井組・小野組を中心とした「第一国立銀行」が創設され、第一国立銀行券が発券された。

しかし同年渋沢は大蔵省を辞任した。井上馨とともに、国家財政の均衡を強く主張していたことが一つの原因だが、辞任以前から実業の世界に進むことを志向してもいた。辞任直後、渋沢は第一国立銀行の銀行事務総監に就任し、その経営に携わることになった。結局、紙幣の発行主体の一員となったのである。写真4をみてほしい。第一国立銀行券には渋沢が署名・捺印(なついん)している。渋沢の長い実業家としての第一歩は、第一国立銀行経営への参画であった。

4.その後の経過 ──近代的紙幣制度確立と大隈・渋沢の親交の行方

大隈重信(左から6人目)と渋沢栄一(右から4人目)。大正期撮影

それでも近代的紙幣制度の確立への道は多難を極めた。国立銀行条例による設置条件は厳しすぎて、1876年までに五つの国立銀行しか設置できなかった。1877年に国立銀行条例が改正され、国立銀行券は不換紙幣となったが、これによって国立銀行が乱立し、同年の西南戦争による戦費調達もあってまたぞろ不換紙幣が乱発され、インフレーションを加速した。このことは、財政責任者・大隈の勢力失墜の遠因となった。この過程で1878年8月23日に起きた「竹橋事件」については、「雉子橋邸を知っていますか 第3回 雉子橋邸、襲撃される」を参照されたい。

2024年から流通する新札見本。上から渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎

ともあれこのインフレを克服するために、1881年より松方デフレが実施され、不換紙幣が大量に償却された。1882年には日本銀行が創業、1885年に兌換紙幣たる「日本銀行券」が発行されたのである。

他方、渋沢栄一の大蔵官僚辞任により、大隈と渋沢は政治的には道を違えることになった。けれども両者の私的な親交は続いた。大隈は東京専門学校(すなわち現在の早稲田大学)を創立して、本邸を皇居前の雉子橋から早稲田に移したが、その過程で不要となった雉子橋邸を1887年に渋沢に売却した。渋沢とすれば大隈への資金援助の意図もあったのであろう。その後も渋沢は、大隈と早稲田大学に対する援助を惜しむことがなかった。

雉子橋邸を知っていますか 都市空間のなかの大隈重信

さて、見通しの利く大隈をもってしても、150年後に渋沢が紙幣の肖像となることを予想していたかどうか。とはいえ、福沢諭吉にせよ渋沢栄一にせよ、大隈にとっては対等な友人であり、この2人の顔が紙幣を飾ったことを彼なりに喜んだであろう。

大隈重信、10万円札試作品

大隈重信の肖像が入った10 万円札の試作品

なお、大隈重信の出身地である佐賀県佐賀市では1990年代、「今の貨幣制度を作った大隈侯こそ新札に最適」などと、大隈をお札にする運動が盛り上がった。「大隈重信をお札にする会」や早稲田大学校友会佐賀県支部などが中心となり、1995年には署名が10万筆を突破。試作品の10万円札も作られた。

【参考文献】
『大隈伯昔日譚』
『大蔵省印刷局百年史』
『造幣局百年史』
山本有造『両から円へ』
『明治大正大阪市史』第7巻
『図録 日本の貨幣』第4・7・8巻
『渋沢栄一自叙伝』
土屋喬雄『渋沢栄一』(1989年)

※写真(1)~(4)は『図録 日本の貨幣7 近世幣制の成立』(東洋経済新報社)から引用

文:中嶋久人【早稲田大学文学学術院非常勤講師。博士(文学)早稲田大学。元大学史資料センター嘱託】

編集:佐野智規【早稲田大学台湾研究所招聘研究員。博士(文学)早稲田大学】

日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【前編】

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