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特集

日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【前編】

【2019年度創立記念特集】

近代的貨幣制度の立役者・大隈重信

2024年から流通する新しい一万円札の顔に渋沢栄一が選ばれました。その渋沢と終生友情を保ち続けた早稲田大学創立者・大隈重信は、「円」という通貨の誕生に大きく関わっています。2019年度の創立記念特集は、「円」を通じて私たちの生活、さらには日本経済・世界経済の根底に息付いている大隈の功績を振り返ります。

2024年から流通する新1万円札

1.大隈重信は明治政府の財政責任者でもあった

大隈重信(左端)と渋沢栄一(右端)

大隈は、明治前期における財政の責任者だった。とはいえ、大隈自身が回想しているように、財政に熟知していたわけではない。幕末期に英語を学んだ大隈は、ハリー・パークスら欧米公使の政治的干渉に抗して日本の主権を堂々と主張するとともに、そのパークスの紹介により英領インドの植民地銀行である「オリエンタルバンク」の横浜支店支配人ジョン・ロバートソンから借金するという、硬軟両様の交渉術を身に付けた外交官だった。財政責任者に任用された大隈の任務は、国家財政の確立を推進しながら、欧米各国からの干渉に対応することだった。しかし、大隈なりの野心もあった。大隈は「外交の困難を仮(か)りて内治の改良を謀らんとせし」と回想している(『大隈伯昔日譚』)。

この大隈のもとに、井上馨・伊藤博文・渋沢栄一ら、新政府の俊秀(しゅんしゅう)が集い、財政を管轄する大蔵省が運営された。彼らは築地の大隈邸で盛んに議論していたことから、中国で義士たちが集った梁山泊(りょうざんぱく)の故事にならって、築地梁山泊と呼ばれた。大蔵省は、内政部門の担当官庁である民部省を兼ね、単に財政だけでなく、廃藩置県や地租改正などの新政府の根幹をなす改革を担った。「日本円」の創設もその一つであった。

2.転換期を迎えていた日本の通貨制度

(1)天保小判

さて、大隈たちによる近代日本通貨制度の大転換を見て行く前に、通貨を巡る歴史をおさらいしておこう。これが学校で試験に出たときの私たちの困惑を思えば、当事者たちの気分もおのずと推測されよう。

そもそも、通貨とはどういうものなのだろうか。1971年の米ドル紙幣と金との兌換(だかん)停止以後、現代の多くの通貨は、紙幣・硬貨とも、その素材価値が通貨価値に一致していない。しかし、それ以前は違っていた。本位貨幣(正貨)という貴金属の素材価値が通貨価値となるべきだ、とされた。その一例が日本の1両小判である。元来「両」は秤量(ひょうりょう)単位であった。本位貨幣が金貨ならば金本位制、銀貨ならば銀本位制という。幕府は金貨・銀貨・銅貨を発行した。

金貨は小判(写真1)一枚が1両であり 、一分金(写真2)4枚、一朱金16枚に換算された。銅貨(銭)(写真3)は4000枚で1両となった。銀貨はもともと秤量貨幣であったが、近世中期から計数貨幣も発行され、1両が一分銀4枚、一朱銀(写真4) 16枚に換算されるようになった。なお、大判・小判・天保通宝(100文)(写真5) は小判型、一文銭などの銭貨は円形であったが、その他の計数貨幣の金銀貨の形状は四角形であった。

財政が悪化すると、幕府は貨幣を改鋳(かいちゅう)してその品位を落とし、差益を得ようとした。他方、貨幣発行権のない諸藩は、藩内の通貨不足や財政難の打開のために藩札を発行した。後編で詳述するが、この藩札が日本の紙幣の源流となったとされている。

1858年に安政五カ国条約が締結され、翌年より外国貿易が開始されたが、それ以降、日本の通貨は動揺する。外国との交易が開始され、日本の通貨も外国通貨と交換されるようになった。しかし日本通貨の金銀比価と外国のそれが異なったため、外国通貨であるメキシコドル銀貨(写真6) が日本の金貨と交換されることにより、日本の金は著しく海外に流失したのである。さらに財政難の打開を目的として幕府は貨幣を改鋳し、諸藩は藩札を増刷した。維新後も、新政府はより品位を落とした貨幣改鋳を実施し、加えて不換紙幣である太政官(だじょうかん)札や民部省札を発行した。存続した諸藩は藩札を増刷したばかりか、貨幣の贋造(がんぞう)をも行った。結果、国内経済はインフレーションとなり、外国商人たちも低品位の貨幣や贋造貨幣の横行に悩まされ、外国公使たちが日本の通貨政策に盛んに干渉した。

(6)メキシコドル銀貨

幕府は1866年、近代的造幣局を翌々年に設置すると約束したが、新政府もまた、新通貨の制定が課題であることを認識していた。約束の1868年には貨幣司が置かれ、閉鎖されたイギリスの香港造幣局の造幣機械を、イギリス人商人のトーマス・ブレーク・グラバーを通じて購入した。同年中に造幣機械が到着し、大阪にて造幣工場の建設が開始された。

3.大隈重信による新貨幣制度の提案

早稲田キャンパスの大隈重信銅像

ここでいよいよ大隈が登場する。1869年に会計官(同年中に大蔵省となる)兼務を命ぜられた大隈は、外交政策のみならず通貨政策にも関わっていく。同年、大隈は貨幣政策担当者の久世治作とともに、新政府の議事機関である議事院に対して新貨幣について建議した。

第一の提案は、貨幣の形状であった。大隈と久世は、今までの貨幣は「方形」(四角形)だったが、外国貨幣は円形で便利であり、それにならって新貨幣は円形にすることを提案した。対して議事院の議官は、日本では貨幣は紙に包んで方形の箱におさめており、外国のように叺(袋)に入れないので貨幣も方形が適当だとして、反対した。これに大隈は、次のように反論した。

  • 日本の貨幣は方形だけではない。戦国期の甲州金は円形であり、近世の小判は楕円(だえん)である
  • 円形であれば、親指と人さし指で円を作れば幼児でも貨幣であることが分かるが、方形では老人でも分からない
  • 方形の貨幣は動かしにくく損磨(そんま)が多いが、円形の貨幣は動かしやすく損磨が少ない
  • 外国の貨幣の形が事物の道理・法則に基づいており、携帯にも便利であることは、日本の貨幣の比ではない
  • 貿易も盛んになっており、品位も量目上も優れている外国一般の制に従って円形にすべきだ

反対者の顔色の変化が目に浮かぶような弁舌である。この大隈の意見に、議官たちは納得した。

提案の第二は、貨幣の名称である。旧貨幣の名称としての両・分・朱を廃止することに、議官たちは消極的だった。今度は久世が、両・分・朱は秤量貨幣だった頃の名残りであって、繰り返された改鋳以降は無意味となった、万国一般の十進法を使う方が煩わしさがなく、民間取引の便益も倍増するだろうと主張した。これにも議官たちは納得した。

(7)人民元紙幣。青で囲んだ部分に「圓」とある

なお新貨幣の名称となった「円」は、丸い形状から中国において「銀圓(円)」と称されたメキシコドル銀貨、および香港造幣局の「一圓(えん)銀貨」に由来すると考えられる。ちなみに中国の貨幣「元」の本来の名称は「圓」であり、今日の人民元紙幣(写真7)にもそのように記されている。

4.「両」から「円」へ ──近代的貨幣制度の確立

大阪に建設された旧造幣寮鋳造所・正面玄関(現在の旧桜宮公会堂)

ところで新政府は、自前で新しい貨幣・紙幣を発行できたのだろうか。貨幣・紙幣を発行するためには、高度な鋳造・印刷技術だけでなく全国流通のための戦略、そして巨額の費用が必要となるはずである。

大隈は伊藤博文・井上馨らと共に、前述したオリエンタルバンクのロバートソンと貨幣発行について協議した。まず本位貨幣として当時貿易決済で通用していたメキシコドル銀貨と同品位の銀貨を発行し、補助貨として50セント貨などを発行、加えて銅貨や金貨も発行することとした。なお、セントという単位は後に「銭」という名称になる。貨幣鋳造には外国人があたり、その監督はオリエンタルバンクが行い、1~2.5万ドルの多額の謝金のほか、鋳造貨幣高の0.1%を世話料としてバンクに支払うことになっていた。結局、イギリス資本に依存した形で新貨幣は鋳造されたのである。

他方で大隈は、三条実美や岩倉具視ら新政府首脳たちと共に、貨幣改鋳中止や贋造貨幣取締を新政府に迫っていたパークスら外国公使たちに対して、新貨幣の創出を宣言した。このあたりが当時の大隈に期待されていた、硬軟両様の外交術なのである。なお、正式な記録に初めてこの時、「圓」(円)という名称が使われている(『大日本外交文書』)。

1869年に太政官造幣局は大蔵省造幣寮に改組されたが、初代造幣頭(長官)に就任したのが井上馨であった。大阪で建設されていた造幣寮は途中で火災に遭ったが、1870年の終わりには試験操業が開始され、1871年に操業式を行った。その間、1870年から1871年にかけて伊藤博文は、アメリカで財政・金融・幣制などの事情を視察し、欧米諸国が金本位制なので、日本でも採用するよう提案した。この伊藤の提案を受け入れて、一両を一円と設定し、金貨を本位貨幣とし、補助貨として銀貨・銅貨を発行する新貨条例が制定され、近代的な金貨(写真8)、銀貨(写真9)、銅貨が発行された。

一方、当時の東アジアの貿易決済ではメキシコドル銀貨が通用していたので、日本政府でも貿易決済のための「貿易銀」(1円相当)(写真10)を発行した。最終的には、この貿易銀も1円銀貨(写真11)として本位貨幣とした金銀複本位制(実質的には銀本位制)となった。ここに貨幣「日本円」が誕生したのである。【後編に続く】

【参考文献】
『大隈伯昔日譚』
『大蔵省印刷局百年史』
『造幣局百年史』
山本有造『両から円へ』
『明治大正大阪市史』第7巻
『大日本外交文書』
『図録 日本の貨幣』第4・7・8巻

※写真(1)~(6)は『図録 日本の貨幣4 近世幣制の動揺』(東洋経済新報社)から、(8)~(11)は『図録 日本の貨幣7 近世幣制の成立』(東洋経済新報社)から引用。

文:中嶋久人【早稲田大学文学学術院非常勤講師。博士(文学)早稲田大学。元大学史資料センター嘱託】

編集:佐野智規【早稲田大学台湾研究所招聘研究員。博士(文学)早稲田大学】

日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【後編】

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