Waseda Weekly早稲田ウィークリー

特集

W杯に残した早稲田の軌跡 西野監督「ア式蹴球部は勇気をくれる仲間たち」

初戦のコロンビアに勝利し、選手と喜ぶ西野監督(共同)

サッカーW杯ロシア大会で、日本代表チームを8強まであと一歩というところまで導いた、早稲田大学ア式蹴球部出身の西野朗監督(1978年教育学部卒業)。開幕前の大半の報道による予想は「グループリーグ敗退」でしたが、ア式蹴球部後輩の岡田武史氏(1980年政治経済学部卒業)が監督として率いた2010年南アフリカ大会以来の16強に進出し、世界中で「番狂わせ」と報じられる成果を挙げました。西野監督と岡田氏に共通するのは、下馬評を覆して「逆境に強い早稲田」を体現したことでした。今週の特集では早稲田大学と日本サッカーの歴史的関係を振り返るとともに、ア式蹴球部関係者による西野監督へのねぎらいの言葉を紹介します。

代表発表後、早稲田に駆けつけた西野監督

西野朗監督(前列左から3人目)が在学中にア式蹴球部に在籍した先輩・同級生・後輩との記念撮影

ア式蹴球部関係者の前で、W杯ロシア大会への決意を述べる西野監督

サッカーW杯ロシア大会開幕約1カ月前の5月18日、西野朗監督の姿は母校・早稲田大学にありました。前任のバヒド・ハリルホジッチ監督が4月に解任され、急きょ代表チームを率いることになった西野監督を激励しようと、ア式蹴球部OBが主催した壮行会に参加するためでした。壮行会では西野監督が在籍当時に共に汗を流した、1975年から1981年に卒業した元部員たちが待っていました。

「ア式蹴球部は、勇気をくれる仲間たち」

初陣となった親善試合ガーナ戦の代表メンバー27人を発表した直後に駆けつけた西野監督。緊張から解放された西野監督は、久しぶりに顔を合わせた元部員たちの変貌ぶりを見て「誰だか分からない(笑)」とちゃかしつつ、心和む雰囲気の中で旧交を温めました。そして、W杯への決意を述べたあいさつで、こう語りました。

「(日本サッカー協会の)技術委員長だったので、光を浴びるピッチに立つのは3年ぶり。どこまでやれるか、という思いはありますが、選手一人一人とコミュニケーションをしっかりと取って、世界で戦えるチームを作っていきたい。ア式蹴球部の仲間の存在は本当にありがたい。勇気をくれる仲間たちだと思っています。母校・浦和西高校の先輩の応援も心強いです」

壮行会に参加した県立浦和西高校の1年先輩に当たる今井敏明さん(元ア式蹴球部監督、元チャイニーズ台北代表監督、1977年社会科学部卒業)は「3連敗もあり得るという大変なチーム状態で引き受けた代表監督で、何とか頑張ってほしいと思いました。私も代表監督の経験があるので、とにかく代表は結果を残すことが大事だと伝えました。彼はうんうん、とうなずいていました。ポーランド戦では不本意ながら“時間稼ぎ”というすごい決断をして決勝トーナメントに進出しましたが、戦いぶりを選手に謝っていたのは彼の人柄がなせること。ベスト8まであと少しという結果を残して、本当によくやってくれました」と後輩の活躍をねぎらいました。

日本対ベルギー戦の後半、先制ゴールを決め、沸き立つイレブン(共同)

「4年後はラウンド16を突破できる」

大半のサッカー評論家・担当記者が、日本のグループリーグ敗退を予想していた中で、日本(当時のFIFAランキング61位)は、コロンビア(同16位)、セネガル(同27位)、ポーランド(同8位)という強豪ひしめくグループHを突破して見事に16強。さらに8強をかけた戦いでは、ベルギー(同3位)に対して後半20分過ぎまで2-0と追い詰めました。W杯決勝トーナメント(ノックアウトステージ)でリードを奪うという、日本サッカーが経験したことのない未知の領域に、西野監督はチームを連れて行きました。

ベルギーに逆転負けを喫し、選手を迎える西野監督(共同)

ベルギーによる終盤の猛攻で逆転され2-3で敗れた試合後、西野監督は「日本代表を激変させたいと思っていましたし、選手もそういう中で1日、1試合ずつW杯で勝負をするためにいい準備をしてくれた。この壁は厚いのかもしれないですね」と語りました。

帰国後の会見で「4年後のW杯カタール大会で、間違いなくラウンド16を突破できる段階にはあると思います。4年後、選手たちが必ず成し遂げてくれる状態につなげた、という成果だけは感じたい」と将来の日本サッカーに自信を示した西野監督。「選手たちのこれからの活躍、躍進に期待したいと思います。メディアの皆さんから非常に厳しい見方、意見、評価をしていただきましたけれど、それも大いに糧になりました。これからも厳しい目で『サムライブルー』を見ていただくことも、大事なことだと思っています。本当にありがとうございました」などと、選手、スタッフ、サポーター、メディアなど全ての関係者に感謝の言葉を述べると共に、7月末での代表監督退任が伝えられました。

岡田ジャパン、海外開催W杯初のベスト16

W杯南ア大会でカメルーンに勝利し、ガッツポーズで喜ぶ監督の岡田氏(共同)

「逆境で打ち勝ち、下馬評を覆した」という姿は、2010年のW杯南アフリカ大会で指揮を執った岡田武史氏と重なります。当時、調子が上向かなかった「岡田ジャパン」は、大会直前の強化試合で4連敗。多くの評論家やメディア、サポーターから厳しい批判を受けて、酷評された状態で本大会に臨みました。

グループリーグでカメルーンに1-0で勝った日本は、続くオランダ戦では敗れたものの、デンマークに3-1で勝利。監督として、どんなにつらく苦しい状況にあっても、不屈の闘志、一貫した信念で世界に立ち向かっていき、見事に自国以外で開催されたW杯で、史上初の決勝トーナメント進出を果たしたのです。

このときのチームには、ロシア大会にも出場した長谷部誠選手、長友佑都選手、本田圭佑選手、岡崎慎司選手、川島永嗣選手が名を連ね、主力選手として活躍していました。トーナメント1回戦のパラグアイ戦は0-0のまま延長戦に突入し、PK戦の末、敗退しましたが、岡田氏の勇姿は早稲田大学の学生・校友・教職員はもちろん、多くのサポーターを勇気付け、「岡ちゃん、ごめんね」という言葉が日本中にあふれ返りました。西野ジャパンは、この岡田ジャパン以来8年ぶりとなる16強。2022年W杯カタール大会における8強以上という、今後の日本代表の明確な目標が定められました。

日本サッカー史に早稲田あり

アトランタオリンピックの日本対ブラジル戦。ボールを競り合うロベルトカルロス(右)、ベベット(中央)=共同

アトランタ五輪「マイアミの奇跡」

日本サッカー史と関係が深い早稲田大学ア式蹴球部は、多くの出身者が金字塔を打ち立ててきました。西野監督は1996年、U-23日本代表監督として、米国・アトランタオリンピック本大会出場をかけた予選を勝ち抜き、当時28年ぶりとなるオリンピック出場を決めました。

本大会グループリーグ第1戦では強豪ブラジルと対戦し、ロナウド、ベベット、リバウド、ロベルト・カルロスという世界的なスーパースターを擁する優勝候補を1-0で破り、「マイアミの奇跡」と呼ばれる勝利を収めました。ハンガリーにも勝って計2勝を挙げましたが、得失点差によってグループリーグ突破はかないませんでした。

1968年のメキシコシティオリンピックの日本対メキシコ戦。3位決定戦で先制ゴールを決める釜本氏(共同)

メキシコシティ五輪で銅メダル 釜本邦茂氏は得点王

「マイアミの奇跡」の28年前、1968年に行われた墨国・メキシコシティオリンピックでは、釜本邦茂氏(1967年第二商学部卒業)、松本育夫氏(1964年第二政治経済学部卒業)、森孝慈氏(故人、元日本代表監督、1967年政治経済学部卒業)、八重樫茂生氏(故人、1958年第二商学部卒業)、宮本征勝氏(故人、元ア式蹴球部監督、1961年第二商学部卒業)という5名のア式蹴球部出身者が代表メンバーに選ばれ、サッカーでは日本のオリンピック史上初かつ男子唯一のメダルとなる銅メダルを獲得、釜本氏は大会7得点を挙げて得点王に輝きました。

ロンドンオリンピックのサッカー男子準決勝 で、先制ゴールを喜ぶ関塚氏。右はW杯ロシア大会にも出場した吉田麻也選手(共同)

ロンドン五輪は関塚隆監督でベスト4

2012年の英国・ロンドンオリンピックで、関塚隆氏(ア式蹴球部出身・元監督、日本サッカー協会技術委員長、1984年教育学部卒業)が監督となった日本が4強に進出したのは、このメキシコシティオリンピック以来44年ぶりとなる快挙でした。

このとき、日本が3位決定戦で戦って敗れた韓国代表チームのフィジカルコーチは、ア式蹴球部出身の池田誠剛氏(サンフレッチェ広島F.Cフィジカルコーチ、1983年教育学部卒)で関塚氏の一年先輩。日本と韓国の銅メダルをかけた戦いは、ア式蹴球部にとっては先輩後輩の戦いでもありました。

40歳の岡田氏、日本史上初のW杯出場を決める

1997年のW杯フランス大会アジア最終予選。苦戦が続く日本は加茂周監督が更迭され、コーチだった岡田武史氏が昇格しました。日本代表監督としては若い、当時40歳の岡田氏は見事にチームを立て直し、マレーシアで行われたイラン代表とのプレーオフで「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるゴールデンゴール方式(※)による延長戦で劇的な逆転勝利。日本史上初となるW杯出場を決めました。

翌年1998年に行われたW杯フランス大会でも岡田氏はそのまま日本代表チームの指揮を執りました。3戦全敗となりましたが、日本はW杯で大きな一歩を踏み出しました。

※)延長戦で先に得点を入れたチームを勝者として試合を打ち切る方式

アジア最終予選のプレーオフ、日本は対イラン戦で「ゴールデンゴール」で初のW杯出場を決めた(共同)

初代チェアマン・川淵三郎氏 日本初のプロサッカー「Jリーグ」発足


試合以外でも早稲田大学卒業生は日本サッカー史に大きく関わっています。日本代表監督経験があり、選手としては1964年の東京オリンピックにも出場した川淵三郎氏(ア式蹴球部出身、1961年第二商学部卒業)は日本サッカーのプロ化をけん引。1993年5月、初代チェアマンとして日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」を発足させました。また、日本サッカー協会副会長・W杯招致委員会実行委員長として2002年のW杯日韓大会の誘致も成功させ、日本サッカーを大いに盛り上げました。日本サッカー協会相談役でもある川淵氏は、81歳となった現在もソーシャルメディア(※)で積極的にサッカー情報を発信して人気を得ています。

日本トップリーグ連携機構会長のツイッターアカウント

日本サッカー史の重要な局面のほとんどで関わっている早稲田大学ア式蹴球部出身者。これからもア式蹴球部のさらなる活躍が期待できそうです。

「勇敢に戦う姿、心動かされた」 ア式蹴球部、西野朗監督へのメッセージ

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