花の都へ来たばかりの頃。何も知らない私は花畑に蝶(ちょう)でも探しに行くように胸を躍らせて大学の授業に出掛けて行った。が、実際は、夥(おびただ)しい土芥(どかい)の中からひとつまみの砂金を探し出すのに似ていた。勿論(もちろん)、今になってみて土芥と思っていたものが黄金であったことに気づくこともある。何十年も問題に取り組んでこられた先生方と深い所で問題意識を共有できなかったために、未熟な私は黄金を土芥と見誤っていたのである。それにしても、多くの先生方の問題意識はよほど甚深微妙(じんじんみみょう)とみえて、凡夫の私の眼には今もその殆(ほとん)どが土芥のままで、身の拙さを恥じるばかりである。
身の嘆きはここまでにして、私が探り当てた黄金の秘密を披露すると、それは至ってシンプルで、“何か”ではなく、「“なぜか”が問題」ということである。学問の目的は真理の追究である。それが大袈裟(げさ)でも、せめて対象となる事象の本質を追究することでなければなるまい。そして、およそ物事の本質はその深層に横たわっていて目には見えないことである。よって、その本質に挑む問いは、きっと「なぜか」でなければならないのである。
幼稚な私が思っていたように、大学は“大学”というだけで学問が行われている所とは限らない。そこには、“何か”とか“どのようにか”とかばかり問うて現象の表層を説明しているだけの人も集(たか)っている。しかし、それは学問擬(もど)きであって、未(いま)だ学問ではない。さらに、最近では、金のためなら魂でも売れという下品な思想まで忍び込んできた。されば、尚のこと、我々だけでも真の学問を求めていくべきではあるまいか。
第984回
(TY)