2017年3月卒業生の多くが生まれた1994年に読売新聞日曜版で連載が始まった漫画『あたしンち』。以降、アニメ化・映画化もされ、約18年も連載が続いた人気作品だ。今回、その作者である漫画家・けらえいこさんにインタビュー。学生時代を振り返ってもらうとともに、“あたしンち世代”ともいえる卒業生へイラストとともにエールをもらった。
個性的な仲間と先輩たち。漫画研究会での刺激的な日々
けらえいこさんの創作活動の原点には、早稲田大学公認サークル「漫画研究会」(以下、漫研)で過ごした日々があった。
「当時の漫研は1つ上に安倍夜郎(漫画家『深夜食堂』など)さんや町山智浩(映画評論家、コラムニスト)さんもいて、全体が集まるとカオスで面白かったんです。夫との出会いも漫研。私が入部した時の3年生でした。」
刺激的な人材の宝庫だった漫研。作品を描くこと以上に、周りの才能や個性と触れ合うことに夢中だったという。
「夫と同じ代にはさそうあきら(漫画家『神童』など)さんがいて、その少し上にはラズウェル細木(漫画家『酒のほそ道』など)さん、やくみつる(漫画家、コメンテーター)さん……他にも今までに見たことのない面白い個性ばかり。二文(第二文学部)は授業が夜だったので、昼にアルバイトし、そのまま夜に授業という生活で毎日疲労困憊でしたが、それでも授業が終わるといつも漫研の仲間たちとさかえ通りに繰り出してました。当時はまだ携帯もSNSもなかったので、コミュニケーションを取る方法がそれしかなかったんです。でもその時間は本当に楽しかったんです。」
大学時代やその後の、いろんな経験に背中を押されて、プロへ
漫研内の漫画誌には作品を一つも描けないまま4年が終わってしまったというけらさん。では、どんな転機を経て、プロの漫画家の道に進んだのだろうか?
「転機というより、私の場合はじわじわプロになっていったんです。20代はずっと中途半端だったかもしれません。大きな刺激になったのは例えば、大学時代の『漫画サンデー』編集部のアルバイト。これは漫研の伝統のアルバイトだったんですが、原稿取りに行って、修羅場中の先生のお手伝いをしたり、先生とお話しできたりして、漫画家さんがずいぶん身近になりました。当時はバブルで、私でも小さなカットの仕事がたくさんありました。発注は基本的に「会って」打ち合わせるので、しょっちゅう業界の方と「差し」で話すことになり、それもとてもよかったです。私は作品をコミック誌へ持ち込んでも、まぁ、ボツばかりで・・。アシスタント、似顔絵師、カットなどで日々つないでいました。それでもバブルのおかげで少しずつプロになれたのです。強い意志というより、時代の流れが大きかったんでしょう。あと、意志というより、人と触れあうことでビジョンが育ったとも言えます。昔から漫画家になりたかったわけじゃなくて、カオスの中でいろいろ揉まれているうち、結果的に今の仕事に落ち着いた感じです。」
そしてもう一つ欠かせないのが、最大の理解者である夫の支えだった。
「24歳で結婚したんですけど、当時、夫は出版社勤務。結婚してからずっと、漫画編集者の夫に漫画を教わっていました。30歳になって『あたしンち』の連載がスタートしたときはもう、自分もプロとして自信がありましたが、大舞台で、毎週、確実に仕上げるにはまだ危なっかしくて、夫は会社を辞め、2人で共同制作することに。」
そうやって17年10カ月にも及んだ新聞連載。苦労も多かったという。
「頭ではもっと連載を続けたかったんですけど、体力が持ちませんでした。特にアニメ放送のあった7年間は原作者(責任者)としてのお仕事と、新聞連載との両立が大変でした。でも、今もAmazonプライムなどで若い世代の皆さんに見ていただけて、本当にうれしいです。」
そんなけらさんが若い世代に言いたいのは、「(強いて言うならば)自分の評価を気にしすぎないことだ」という。
「学生時代を振り返って反省しているのは、落ち込んでいた時間の長さ。なんだかずっと凹んで過ごしていたかもしれない(笑)。
いまだに自分もできていないけど、反省は一瞬で済ませて、元気に過ごしたほうがいいですよ。」
「最後に一言。みなさん、ご卒業おめでとうございます。」
【プロフィール】
けらえいこ
1962年生まれ。東京都出身。1986年早稲田大学第二文学部卒業後、1987年に『3色みかん』(小学館『ヤングサンデー』)でデビュー。1994年6月に連載開始した『あたしンち』で第42回文藝春秋漫画賞を受賞。コミックスは累計1,000万部を突破し、海外でも翻訳出版されるなど人気を博している。