学生時代の課外活動が現在の活動の原点となる

おとたけ・ひろただ 1976年生まれ。2000年早稲田大学政治経済学部卒業。大学在学中、自身の経験を綴った『五体不満足』(講談社)が500万部を超す大ベストセラー に。卒業後はニュースキャスター、スポーツライターの職を経て、2005年より本格的に教育活動をスタート。2007年から3年間、杉並区立杉並第四小学 校教諭として勤務した後、今年2月より現職。
教職、執筆業をはじめ、これま で幅広いフィールドで活躍してきた乙武 洋匡さん。その多彩なキャリアはある種の必然性のもとに築かれてきた。話は大学時代にさかのぼる。 「大学1、2年生のとき、早稲田の商店街の町づくりイ ベントに参加し、子どもに対して地域社会が教育的働きかけを行う地域教育や、バリアフリーに関する活動に携わりました。僕が提案したのは車いすの試乗会。 結果的に子どもたちの気づきや学びにつながったという経験は大きな達成感がありましたね」。
一連の活動はメディアにも取り上げられ、乙 武さんの生活体験を綴った『五体不満足』の出版へとつながっていく。同作は大ヒットを記録。一躍、時代の寵児(ちょうじ)となった乙武さんは、学生ながら ニュース番組のサブキャスターに起用された。しかし、四六時中、周囲から注目されるストレスは想像を絶するつらさ…。
「本なんて出すんじゃなかったという後悔を、3年間し続けました」。
ライターとして活躍することで、障がい者への固定観念を覆す
乙武さんがメディアをにぎわせたのは3年生の頃。自分の関心事を卒業後の進路選択につなげるのなら、乙武さんの場合、地域教育や福祉が視野に入ってくるはずだ。だが、彼が志したのはスポーツライター。
「世間に少なからずある『障がい者は福祉の道を選ぶ』という固定観念に違和感がありました。障がい者と結びつかないと思われている分野で活躍することこ そ、真のバリアフリーではないのかと。当時は『五体不満足ながら』という枕詞がセットになった評価を恐れていたので、ライターのように純粋に記事の内容で 評価される世界で勝負したいという気持ちと、大好きなスポーツに携わりたいという気持ちが合わさり、スポーツライターの道を選びました」。
しかし、この決断によって世間が抱くイメージと本当の自分との乖離に対する苦しみがすぐに和らぐわけではない。ならば、乙武さんにとっての転機はいつだっ たのだろう。「あるとき、キューバの国民的英雄で、当時社会人野球のシダックスに所属していたオレステス・キンデラン選手に取材する機会を得たんです。大 ファンであることをお伝えすると、『今度試合を見にきてください。その日僕がホームランを打てたら、それはあなたのために打ったものです』と言ってくだ さった。その言葉で僕は目が覚めました。自分も一有名人なのに、周囲が期待する“乙武像”から逃げることばかりを考えてきた。これからは周囲のイメージに 近づく努力をしようと心に決めた瞬間です」。
これを機に乙武さんは自著を前向きに捉えられるようになる。ちょうど同じ頃、スポーツライ ター・乙武 洋匡に対する世間の評価からは、「五体不満足ながら」という枕詞が聞かれなくなったという。そこで、あらためて「純粋に取り組みたいこと」を自問した際、 脳裏に真っ先に浮かんだもの、それが教育だった。
教育委員としての抱負は“少数派”の子を救うこと
こうして2007年から、杉並区立杉並第四小学校における乙武さんの教員生活が始まる。組織の中で教育を実践することの難しさ、一方で子どもの成長を実感 できる喜び。さまざまな感情と向き合った3年間の日々は小説として作品化され、自身が出演する映画としても公開された。そして今年、史上最年少の東京都教 育委員に選ばれ、教育の世界でさらなる飛躍が期待されている。
「世の中には障がい者だけでなく、他にもマイノリティであるために肩身の狭い思いをしている人がいます。彼らが笑顔で学校に通える方法を探るのが、同じ立場を経験してきた僕の使命だと受け止めています」。
教育現場の経験者として、その発言が大いに期待されている乙武さん。早大生に向けても次のようにエールを送ってくれた。
「早稲田は学生の自主性を最大限尊重する大学で、物事に打ち込める最高の環境です。まずは将来、社会とどう関わっていきたいかを考えてみてください。そこでやりたいことを見つけ、早稲田の環境を生かして存分に打ち込んでほしいと思います」。