Waseda Weekly早稲田ウィークリー

早稲田の学問

芸か血縁か ―歌舞伎における家族とは

平成の三代同時襲名から考える

文学学術院 教授 児玉 竜一(こだま・りゅういち)

1967年兵庫県生まれ。早稲田大学大学院から、東京国立文化財研究所芸能部、日本女子大学などを経て、早稲田大学教授。演劇博物館の展示などにも携わり、2013年から演劇博物館副館長。専門は歌舞伎研究と評論。編書に『能楽・文楽・歌舞伎』(教育芸術社、2002年)、共編著に『最新 歌舞伎大事典』(柏書房、2012年)、図録『よみがえる帝国劇場展』(早稲田大学演劇博物館、2002年)など。「朝日新聞」(東京)で歌舞伎評担当。

歌舞伎における芸名の襲名は、古くから、血縁に限ったものではなかった。一家の芸を受け継ぐ、歌舞伎にとっての家族とは。

歌舞伎界では珍しい血縁による三代同時襲名

歌舞伎界の2018(平成30)年は、正月から慶事に沸いている。

松本幸四郎家の三代襲名披露が行われているのである。九代目松本幸四郎が二代目松本白鸚(はくおう)を、その長男の七代目市川染五郎が十代目幸四郎を、さらにその長男の四代目松本金太郎が八代目染五郎を新たに名乗ることになった。新しい二代目白鸚は早稲田大学文学部の出身であり、早稲田大学藝術功労者にも選ばれている。

血縁の直系による三代襲名は、歌舞伎界でも非常に珍しい。前例を求めれば、他ならぬ九代目幸四郎が襲名した、1981(昭和56)年10月にまでさかのぼる。この時は八代目幸四郎が初代白鸚、六代目染五郎が九代目幸四郎、三代目金太郎が七代目染五郎を襲名した。

実は当時、すでに初代白鸚は病魔に侵されており、白鸚の側から三代同時の襲名を打診された松竹の担当者が、「では、2、3年後に」と緩やかに答えたところ、「それでは間に合わない」と急がせたと伝えられる。全ては死期を悟った初代白鸚の差配によって逆算されるような形で進められた。現に初代白鸚は、襲名披露興行中も「羽織が重い」と漏らしたほどの体調不良を押して舞台を務めた。1981年10月と11月の歌舞伎座興行でいくつかの役を途中休演しながら、ともかくも務めを果たして、翌1982(昭和57)年1月11日に亡くなった。九代目幸四郎は1月、大阪での襲名披露公演に出演しており、夜の部終演後に最終便の飛行機で東京へ帰って父に寄り添い、翌朝の飛行機で大阪に戻って昼の部に出演するという生活を続けていたという。私がこの公演を見たのは1月10日以前のことで、まだ白鸚は生きていたが、後日の白鸚の訃報以降は「勧進帳」の幕外で激励の拍手が鳴りやまなかったとも聞いた。

養子たちも堅く守った家の芸

それから37年たっての三代同時襲名にあたって、新白鸚の九代目幸四郎氏にインタビューをする機会を得た。その冒頭で、誠に珍しい2度目の三代同時襲名にこちらから言及した途端、新白鸚は言下に断言した。「歌舞伎界が、今ほど血縁主義になったのは戦後のことですからね、それ以前に例がないのは不思議はありません」。

そうなのである。昭和末期に世代を交代した、明治・大正生まれの歌舞伎の大立者には、養子が多かった。十三代目片岡仁左衛門、七代目尾上梅幸、六代目中村歌右衛門、いずれもそうだった。別段そのことを取り立てて明らかにするわけでもなく、現に七代目梅幸などは徴兵検査の時に初めて、自分が養子であることを確認したという。

実子であるよりも養子の方が、継いだ家に対する責任感をより重く受け止めるようでもある。歌舞伎の場合、家の芸とか、親の演じた型というものが、継承すべき責務として後継者にのしかかる。人にもよるが、親の演じた型を自分独自の考え方で、融通無碍(ゆうずうむげ)に変化させてゆく度合いは、実子の方がより顕著であるかもしれない。養子は、親の演じ方を墨守と言ってもいい純粋さで、守り通す場合が多い。

十三代目仁左衛門の養父、十一代目仁左衛門は名代の偏屈者で、共演者に気に入らないことがあると舞台の上でセリフの書抜(かきぬき)(※)を広げて読み始めたとか、舞台に落ちているゴミは必ず拾ったとか、さまざまな奇譚(きたん)が伝えられた名優である。その奇癖にふさわしく、1934(昭和9)年に亡くなったにもかかわらず、レコードへの吹き込みが一つもない。周囲が皆録音している中で、一人だけ生涯にわたって拒否し続けたのである。このため、十一代目仁左衛門のセリフ回しは記録に残っていなかった。ところがよくしたもので、戦前期には声色のレコードというものがある。物まねの商品化であるが、まねはまねにすぎないので、どれか一つを聞いて判断するのは危険だが、幾つもの声色を聞いていくと、おのずから最大公約数的な要素は明らかになってくる。そうして分かってきた十一代目仁左衛門のセリフ回しは、実は十三代目にそっくりであった。もちろん、十三代目がそれほど一生懸命に養家の在り方に尽くし、父の跡を慕ったからである。

※ 脚本の中からその役のセリフだけを抜き書きしたもの

すなわち、歌舞伎にとって、伝えるべきは芸であって、血ではないのである。それは、老舗の商家が後継者を選ぶのに、実子を取るか、有能な番頭上がりを選ぶかを、見極めるのにも近い。家族が前面に押し出され、血縁のつながりや、DNAの発現(?)を、これでもかと盛り込むテレビのドキュメンタリーに毒されると見失うが、子育てをする役者の奥方が表に出てきたのも、せいぜいが1970年代以降の傾向で、長い歌舞伎の歴史からみればほんの昨日のことである。

写真提供:松竹(株)・(株)歌舞伎座

芸を継ぐ家族としての「部屋子」

血縁に頼らない家族の在り方として、歌舞伎には「部屋子」という制度もある。弟子や子役の内で、才能ありと見込んだ者を、弟子以上・息子未満の位置に据える。かつては坂東玉三郎がこの道を通って、その後、十四代目守田勘弥の養子となり、近くは片岡愛之助が部屋子から片岡秀太郎の養子となって、ご承知の通りの人気者になった。

実は、本学文学部にも、つい最近まで、中村勘三郎家の部屋子の中村鶴松君が在籍していた。本名で子役の舞台に出ていた彼を見いだしたのは十八代目中村勘三郎で、本人の希望とご家族の後押しもあって、十八代目の襲名披露に合わせて部屋子披露となった。たまたま雑誌にその公演の劇評を書いた私が、まさかその数年後に、ご当人の卒論指導を担当しようとは夢にも思わなかった。

鶴松君は、高校3年生の12月という大事な時期に、十八代目勘三郎が57歳で逝去するという事態に直面し、その悲嘆を乗り越えて、一般入試に合格して入学した。部屋子になったものの、その最大の後ろ盾をなくしたわけだが、幸いにも、十八代目の遺児である中村勘九郎・七之助兄弟が快く彼を迎え入れて、テレビに向けて度々「3人目の息子」という十八代目の言葉を紹介してくれている。そのような疑似家族としての仲間のありよう、芸を継いでゆくという重い宿命を背負った同志としての連帯の在り方に、もし共感を寄せていただけるなら、ぜひ舞台に足を運んでいただきたい。

教室でのことは明かすべきではないかもしれないが、一つだけ。

歌舞伎作品の演習で、彼にひとくさりだけ、セリフの実演をやってもらった。多くの学生は、本職(?)がいることをそれまで知らず、驚嘆と喝采の内にお嬢吉三のセリフが流れた。「拷問だ……」と彼はボヤいたが、目の前で生のセリフを聞いた学生たちは、一生彼のことも、歌舞伎のことも忘れまい。そう私は願っている。

(『新鐘』No.84掲載記事より)
※記事の内容は取材当時(2017年度)のものです。

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