テレビ朝日の「やじうまワイド」で四月からスポーツ・コメンテーターとして活躍しているゼッターランド・ヨーコさん。バルセロナ、アトランタオリンピックのバレーボールで輝かしい成績を残したことはご存じの方も多いのでは?
バレーボールとの出会いから現在までを語っていただいた。
◆バレーボールとの出会い

本学人間科学部卒業。アメリカ・サンフランシスコ出身。中学時代から本格的にバレーボールを始め、全国優勝を遂げる。以後、華々しい活躍を続け、92年バルセロナオリンピックでは銅メダルを獲得。また、96年のアトランタオリンピックにも出場する。99年6月に現役を引退後はスポーツ・コメンテーターとして活躍中。現在テレビ朝日「やじうまワイド」にレギュラー出演中。
小学校五年生の時に、元バレーボールの選手だった母に連れられてバレーボールの試合に出たことがきっかけですね。元オリンピック選手とか、大学のスターだった選手たちの男女混合の試合で、人数が足りなくてたまたま入れられたんです。そうしたら、私のところへボールが飛んで来て、それを偶然うまく返すことができて、攻撃までつながっていったことで、「バレーボールをやりたい!」と思いました。それまではバレーボールには全然興味がなかったんですが、その一球がここまで人生を変えることになるとは思いもしませんでした。イヤイヤながら試合に入っていったぐらいでしたから。
それから本格的にバレーボールをやるようになりましたが、「辛い」と思ったのは怪我をして練習やプレイができない時でした。でも、練習が辛いとか、負けたからとか、レギュラーになれないから、という理由で辞めたいと思ったことは一度もなかったですね。トータルで十八年間のバレー人生の中で嬉しかったことは、バレーボールを通じて幅広い年齢層の方々と触れ合うことができたり、違うジャンルの方に会って啓蒙されたりということですね。たった一個のボールで人間的に広がりが持てるということが楽しかったですね。捻挫や骨折もしましたけれど、致命傷になるような故障やケガもなくやれたのは幸せでした。選手の中には、膝を傷めて歩くのもままならないぐらいになってしまう選手もいましたから。指導者にも恵まれていたと思います。
◆早稲田大学での四年間
人間科学部での四年間を振り返ると、面白かった思い出しかないですね。最初はチーム自体が弱くて、入学当初は六部にいたんですが、勢いがあって、前に向かって走り続けているような感じでした。レベルもさまざまで、いろいろな価値観を持った人がいる中で、桶の中で芋を洗っているようにガラガラやっているうちに、最終的に良い成績を残せたような気がします。 入学してから半年ぐらい、ユニバーシアードの選手に選ばれていたので、大学のチームと合流できなかったんです。それで、やっとユニバーシアードの大会が終わって、チームに合流できる日の朝、家を出て行こうとしたら、母が「どこへ行くの?」って言うんです。「学校」って答えたら、「授業の道具、下駄箱の上に置きっぱなしよ」って言われて(笑)。練習着だけ持って授業の道具忘れそうになったんです。「授業料が高いんだからちゃんと勉強しなさい」って言われましたけど、それくらい、みんなと一緒にバレーボールができるのが嬉しかったですね。
「世界でプレイしたい」と言っているくせに、バレーボールが弱い大学へ入ることは意味がないと言われたこともありました。「世界的なピアニストにバイオリンを弾く暇はない」って。でも、「音感は狂うわけじゃないからいいじゃないか」と思ったんです。それと、実業団に行ってバレーをやることで、自分が本当に生きるかどうかっていうことも考えて、早稲田を選びました。下手でしたけれど、みんながわずかな時間を一生懸命バレーに注ぎ込んでいる、そういう人たちとバレーをやりたかったんですよね。結局、今振り返ってみると、四年間、バレーボールしかなかったですね。たとえ一日に二、三時間しかボールに触れなくても、その時間を百パーセント活かしてきたな、という思いはありますね。
◆そしてオリンピックへ
大学を卒業して、一旦フジテレビに入社したんですが、アメリカナショナル・チームに合格し、チームから早急に合流するよう要請があったので一九九一年四月に渡米しました。フジテレビの方でも理解を示してくれて、フジテレビには二年間在籍したんですが、結局人事局付きのままで、仕事はしなかったですね。 当時は日本にはベテランの選手も多かったですから、気持ちの持久力、持続力は日本の方が強い部分がありました。日本とアメリカの決定的な違いという点では、日本のチームは実業団に入ってバレーボールを続けていきますが、アメリカではリーグが存在しないので、大学を出て即ナショナル・チームを母体として訓練します。アメリカのナショナル・チームの場合は、自ら望んで試験を受けて合格した人の集団だったので「やらされている」ような感覚でプレーをしている人は一人もいませんでした。そうすると、最終的には、技術や体力が同レベルでも、気持ちの面で勝っている部分で、日本が負けてしまうんです。サッカーやラグビーならワールドカップが最高峰の目的としてありますが、バレーボールの場合はオリンピックの正式種目になっていますから、そこが最終目標になっていました。
初めて行ったオリンピックは九二年のバルセロナでした。ただ、ナショナル・チームに入ってオリンピック出場が決まって、そこでメダルが取れて、と夢のうちに終わってしまったようなオリンピックでした。大学時代は、オリンピックなんてとても遠いところだったのに、ナショナル・チームに入った途端にそれが目の前に来た、っていう劇的な変化だったので、気がついたらオリンピックが終わって目の前にメダルがある、という感じでした。二回目は逆にじわじわとオリンピックが自分の中に浸透してきていたので、落ち着いて出られた感じがします。ただ、気持ち的にはかなり切羽詰ったものがありました。そういう意味では、同じオリンピックでも、バルセロナとアトランタでは気持ちの中では対極にあったような気がします。 バレーボールを始めた時から「オリンピックに出てメダルを取るんだ」っていう目標は自分の中にありましたから、それが達成された喜びはありました。
◆明日へ向かって
今、スポーツ・コメンテーターとしての仕事を四月三日から「やじうまワイド」のスポーツコーナーを担当しています。朝五時五十分スタートの番組の中で、二回のコーナーに分かれてスポーツに対するコメントを出す、という仕事です。番組の性質上、スポーツを真剣に語る部分と、家でしゃべっているような感じで話す部分があって面白いですね。やりがいがある仕事なんですけれども、まだ慣れていないので、いろいろ失敗もあります(笑)。スポーツは多くの人に愛されていますし、切り口も広いですから、その楽しさを伝えていけるように、独特のコメントが出せるようになればいいな、と思っています。いろいろなスポーツが観られるのが楽しいですし、今まで分からなかったことが分かったりして、「言うネタがない」とか「疲れた」ということはないですね。
今は朝の三時に起きて、テレビ局へ向かうという生活をしています。身体が慣れてくるまでは大変で、最初の頃は目覚ましをかけておいても一時半頃目が覚めてしまったりしました。今は砕けすぎず、硬過ぎず、というのを心がけています。
◆学生のみなさんへ一言
四年間、その日その日の一瞬を大事に生きてもらいたいですね。先の夢とか希望を持っているのは大切ですけれど、過程を大事にしないと将来にはつながっていかないと思います。そのために、自分が何をしたいか、何ができるかということを大事に考えてください。