とある日曜日の黄昏(たそがれ)時、近所を散歩していると、サーカスの到来を告げるポスターが目に飛びこんできた。当地に越してきて20年近くになるが、サーカスのポスターなど、およそ見た記憶がない。しかも、商店街で買い物をした額が幾ばくかに達すると入場券が手に入るという。
外国の有名なサーカスの公演ともなるとチケットを手に入れるのが一苦労の上に、料金も異様に高い。たしかに、演技も装置も洗練されているのだが、サーカスがここまで「高級芸術」になるのも善し悪しだ。
私などの世代からすれば、新聞の購読や商店での買い物を機会に手に入るチケットのほうが、それ自体すでに小さな「非日常性」であり、気分もときめく。
サーカスには演劇や映画に近い側面もあるが、生身の人間が危険性の限界すれすれまで挑むさまを目の当たりにするという点では、サーカスを凌(しの)ぐ見世物はあるまい。その一方では、道化が引き起こす笑いもある。それはサーカスならではの笑いであり、特定の個人でなく世界を笑っている。
大人と子どもが一体になれるのもいい。中でも、共に固唾(かたず)を吞んで見守る演目となれば、綱渡りや空中ブランコだろうか。とりわけ綱渡りでは空中ブランコ以上に空気が張り詰める。やはり、サーカスの目玉はバランス芸なのだろう。しかもスタティックなバランスではなくダイナミックなバランス! 多少は揺れながらも巧みにバランスをとっていく。この妙技に観客は圧倒されるとともに憧憬(しょうけい)の念、あるいは敬意すら抱く。人生も、社会も、世界もかくあれかし、と。
(K)
第991回