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北米在住 早稲田大学校友および元留学生 ・留学の軌跡 —— ジム・モックフォード氏
Fri 17 Jul 26
Fri 17 Jul 26
「留学から50年を振り返って」
2026年6月13日は、私がオレゴン大学でアジア研究および日本語を専攻したオナーズ・カレッジの文学士号を取得して卒業してから、ちょうど50周年にあたる日です。大学時代を振り返ると、私が最も大きな影響を受けた経験は、1974年から75年にかけての3年次に、東京の早稲田大学で過ごした留学生活でした。1970年代当時、アメリカで日本語を学ぶことは珍しく、私が4年次(最終学年)の時には、オレゴン大学では日本語専攻2年目の学生はわずか15人、そして3年目の学生は5人のみでした。その数年後には、世界中で日本研究が盛り上がる、いわゆる「ジャパン・ブーム」が起こったのですが、留学当時、日本で学ぶという選択が、将来のキャリアにとってどれほど役に立つか、知る由もありませんでした。
早稲田大学で日本語を学んでいた私の語学力は、杉山先生という指導者のもとで大きく成長しました。というのも、杉山先生は明るく前向きで楽しい先生で、授業中に私たちがとても面白い間違いをすると、思わず笑ってしまうような先生だったからです。私たち自身も、自分たちの間違いに気づいたときには、一緒になって笑いました。杉山先生は、私に、オレゴン大学の松岡陽子マックレイン教授を思い出させました。マックレイン教授は後に、『漱石の孫のアメリカ』という本を執筆されています。夏目漱石は明治時代の著名な小説家で、マックレイン教授の授業では、漱石の翻訳された作品を数多く読みました。マックレイン教授は、日本の常駐ディレクターを務めていたステファン・コール教授とともに、交換留学生として冒険に踏み出そうとしている私たちの準備を手伝ってくれました。1970年代当時は、インターネットが登場するずっと前の時代であり、多くのことは「その場に行ってみる」ことでしか学べませんでした。そしてそれは現代においても同じで、日本についてきちんと学ぶためには、学生は実際に「日本にいる」必要がある、と私は信じています。
田中家でのホームステイ ~忘れられない学びの舞台~
私にとって本当の学びは、日本の家での生活の中にありました。英語をあまり話さない日本人家庭でのホームステイの日々は、私にとってチャレンジであると同時に、素晴らしい機会となりました。私を温かく受け入れてくださり、その後も生涯にわたる友人となった田中家の皆さんには、心から感謝しています。2025年には、妻のシェリルとともに再び田中家を訪れ、92歳になられた田中フミコさんと、その息子さんのシンヤさんにお会いしました。
田中フミコさんと息子のシンヤさん、そしてジム&シェリル・モックフォード夫妻(2025年)
私が田中家に滞在した最初の外国人留学生でしたが、田中家は私の後も、早稲田大学の交換留学生を、ホストファミリーとして受け入れ続けました。私は田中家にとって初めての外国人留学生として、当時のとても伝統的な日本の朝ごはんを経験したのですが、当然ながら家にコーヒーがありませんでした。日本食は好きですが、スターバックスはおろか、マクドナルドですら街に1,2店舗しかないところで過ごすのは、なかなか耐えられないだろうと思いました。そこで、私たちはまず、インスタントコーヒーを試し、次にヨーロッパ風のガラス製パーコレーター、さらにドリップコーヒーを淹れてみました。田中夫人も、外国人が淹れる様々なコーヒーの淹れ方に、興味を持つようになっていきました。その結果、後に田中家に滞在する交換留学生たちは、朝食は日本の伝統的なものだけでなく、様々なスタイルのコーヒーにもありつけるようになっていきました。また、ラーメンからお寿司まで、たくさんの料理を高く積み上げた箱を載せて自転車やスクーターで配達してくれる、飲食店の出前サービスにも、感心しました。とは言っても、普段は田中夫人が用意してくださる家庭料理が中心で、田中家が経営する米屋で厳選した、とても新鮮なお米を使ったお食事をいただいていました。
田中氏は代々続く米屋の店主であり、1945年の東京大空襲を体験しました。この空襲により市内の広い範囲、そして彼らの住んでいた地域の大部分も破壊されました。その地域は1961年に「平和島」と改名されました。現在、その臨海地域は、公園や大森ふるさとの浜辺公園のビーチなどが整備され、美しく再開発されています。戦後、田中家は米店を営むビルを建てなおしました。1階には店舗があり、店舗のすぐ隣には、家の玄関口がありました。家の中には和室のリビングと洋式のダイニング、キッチンがあり、階段を上がると2階には寝室がありました。さらに3階には、入口が別になったアパートの部屋がいくつかありました。平和島の駅までは歩いてすぐで、そこから早稲田大学のキャンパスへは、途中で何度か乗り換えをしながら、およそ1時間かかりました。学生には通学用の定期券が支給されていましたが、銀座など別の場所へ出かける場合には、その区間を超える分の運賃を支払う必要がありました。当時の東京はよくスモッグが発生しており、日本の1960年代から70年代にかけての「高度経済成長期」を支えた多くの工業地域がまだ残っていました。しかし、そうした場所の多くは、現在では公園や商業施設、あるいは住宅地へと再開発されています。
早稲田大学の経済学の授業では、ワダ教授から、第二次世界大戦後の日本の復興の歩み、産業政策や国際貿易の成功、そしてあと何年かはこの経済成長が続くと期待されていることについて、学びました。実際、その見通しは非常に的確であり、そのわずか数年後の1979年には、エズラ・ヴォーゲルによる『Japan As Number One: Lessons for America』が、アメリカでベストセラーとなりました。また私は、タケダ教授から日本文学を、そして明治時代の著名な小説家・森鷗外の孫である、森常治教授から、詩を学びました。学生として、歌舞伎や能・狂言、相撲といった、いわゆる「ハイカルチャー」にも触れました。それと同時に、田中夫人が大好きだった高島屋デパートに連れて行ってもらったり、娘のコズエさんと一緒に茶道のお稽古に参加したり、息子さんの学校の運動会に出席したりといった、「日常に根差した文化」からも多くのことを学びました。
学期の合間の休暇中には、他の学生たちとともに、日本列島の主要な島、四島をすべて訪れ、本州各地を旅したほか、四国や九州にも行きました。また、田中シンヤさんと一緒にユースホステルに泊まりなが北海道にも旅行しました。
レストランの前にて、田中さんご一家と姪のミチさん(1974年)
留学を経て見えてきた、自国の姿
1975年6月にオレゴンに戻った際には、「逆カルチャーショック」を経験しました。それは、自分の国を新たな視点で見直す「再適応」の過程の一部であり、日本での生活の中で自分の一部となっていた日本的なものを、思いがけず恋しく思う体験でもありました。その後、オレゴン大学での最終学年の勉強に没頭し、1976年の春には、アメリカ西海岸で唯一の日本語スピーチコンテストに出場しました。この大会はサンフランシスコで、Japanese Language Speaking Society of Americaによって開催されたものでした。結果として優勝はできませんでしたが、「負けるは勝ち、失敗は成功の母」と日本語で記された辞書を参加賞として持ち帰りました。
オレゴン大学を卒業後、私は日本に戻って働き、その後世界各地を旅しました。さらに数年後、ワシントン大学の大学院生として通っていた1981年に、ワシントン州日米協会(Japan-America Society of the State of Washington)の初代事務局長に採用されました。私は、作家エズラ・ヴォーゲルを始めとする、著名な日本研究者による公開講義を企画し、シアトルと神戸の姉妹都市交流にも参加しました。また、毎年開催されるシアトル桜祭り・日本文化フェスティバルの支援にも携わりました。さらに1983年には、同協会によって企画され、故デイヴィッド・エンロス氏および森口富雄氏(いずれも同協会の会長を務めた人物)が率いた「米国議会親善使節団」において、5人の米国下院議員と20名のビジネス関係者からなる代表団に同行しました。
1983年、東京で開催された、海外在住日本人国際会議に参加するため、私は森口富雄氏のオブザーバーとして同伴し、首相官邸で開かれたレセプションにおいて、当時の中曽根康弘首相にお会いしました。また、私が大学を卒業した1976年に、アメリカ建国200周年の記念としてシアトルに1,000本の桜を寄贈した、三木武夫元首相にもお会いしました。当時は、早稲田大学への留学からまだ10年も経たないうちに、日本の総理に二人もお会いすることになるとは思いもよりませんでした。

三木武夫元首相とともに(1983年)
日本への米国議会使節団は1983年8月、愛知県の農場や、シアトルの姉妹都市である神戸市、さらにワシントン州の姉妹県である兵庫県の関係者との面会など、日本各地を訪問して回りました。また、広島への訪問は非常に意義深いものでした。そこでは、シアトル在住の被爆者・アキラ・“ケン”・ナカノ氏の取り計らいにより、当時の荒木広島市長とお会いし、広島の原爆で亡くなった子どもたちの慰霊碑「サダコ像」に、1000羽の折り鶴を送りました。
しかし、1983年9月1日、私たち使節団の訪問行程の終盤で、ソウル発大韓航空007便が、サハリン島上空でソ連機に撃墜され、それまで順調だった私たちの旅は、突如として国際的な緊張の中に巻き込まれることになりました。マイク・マンスフィールド駐日大使は、私たち一行のために在日米国大使館でバーカー将軍から説明を受ける機会を設定し、最新の機密状況についての報告を受けました。その後、私たちは中曽根首相の公邸を訪問しました。下院外交委員会のメンバーであり、今回の使節団の最上位メンバーであったワシントン州選出のジョエル・プリチャード下院議員は、この事件の翌日に、最初に面会するアメリカの団体として私たちを迎えてくれた中曽根首相に謝意を表しました。この危機の最中に、日米両国の結束が再確認されました。

中曽根康弘首相 (当時) とともに(1983年)
また、その日のうちに、プリチャード下院議員は、外国特派員協会でヘンリー・ジャクソン上院議員が心臓発作で亡くなったとの電話を受け、その知らせを記者クラブで伝えました。その週の初めには前向きな会合を重ねてきた私たち連邦議会代表団は、この一連の出来事により、極めて深刻な状況の重みを感じることとなりました。しかし同時に、日本とのより緊密な関係が確認できたことを、その週の後半にシアトルへ戻る機中で、改めて思い返していました。
新たな時代へ受け継がれる灯火
私は1980年代、より喜ばしい機会に何度か日本を再訪し、1987年には三木武夫・元首相の公職50年を記念する国会での顕彰式に出席しました。1988年に三木元首相が亡くなられた後には、服喪の期間中に、渋谷区南平台町の三木邸を訪れました。そして、シアトルで三木睦子夫人をお迎えし、三木元首相の出身地である徳島の阿波踊りが、シアトル桜祭りおよび日本カルチャーフェスティバルで披露されたことをきっかけに始まった三木家との交流は、その後も続きました。三木氏の娘である高橋希世子さんは、長年にわたり親しい友人となり、私たちは彼女をシアトルで、オペラや大型帆船レディ・ワシントン号での航海にご案内しました。彼女は後に徳島を代表して国会議員となり、2020年に逝去されました。
1981年から1985年にかけて日米協会の事務局長を務めた経験は、私が早稲田大学への留学を経て、50年前に大学を卒業した当時には想像もしなかったほど、日本に関わるキャリアを大きく広げてくれました。その後も日本に関わる仕事に携わり続け、コンサルタント、日本語教師、そして2021年に引退するまでの約25年間は、ソフトウェア業界で働いてきました。また、日米関係の促進を目的とする地域団体にも関わり、1998年から2008年までは、日本に初めて英語を教えた人物、ラナルド・マクドナルドを顕彰する歴史・教育団体「フレンズ・オブ・マクドナルド」の会長を務めました。さらに、「The Friends in Friends of MacDonald」(『オレゴン歴史季刊』2018年)や、「The Lady Washington at Kushimoto, Japan in 1791」(論文集『The Early Republic and the Sea』2001年)といったエッセイも発表しています。さらに驚いたことに、2022年に出版された漫画『Mamiya’s Maps: A Samurai Explores Sakhalin』(ショーン・マイケル・ウィルソン原作、下島明子作画)には、私自身が登場人物として描かれています。
近年も何度か日本を訪れていますが、早稲田大学のキャンパスを訪れたのは、2015年に大隈講堂で開催されたシンポジウム「The Torch Has Been Passed: JFK’s Legacy Today」に出席したときが最後です。このシンポジウムには、安倍晋三首相、キャロライン・ケネディ駐日大使とその息子でジョン・F・ケネディ元大統領の唯一の孫であるジャック・シュロスバーグ、さらにビル・クリントン元大統領をはじめ、多くの要人が集まり講演を行いました。
早稲田大学の鎌田薫総長(当時)が司会を務め、その後2018年には田中愛治総長が就任し、2026年現在、早稲田大学150周年記念事業を主導しています。パンデミックの影響で田中総長と直接お会いすることはできませんでしたが、2020年9月にZoomウェビナー形式で開催された「第1回 米国早稲田フレンズ オンライン同窓会」に参加したほか、パンデミック期に早稲田が仮想会場として先駆的に導入した、新しいバーチャル交流ツール「SpatialChat」を通じて、田中総長と会話する機会にも恵まれ、新たな時代の校友活動が始まりました。まさに今、「トーチが引き継がれた」のだと感じています。そのバトンは、パンデミック後の新しい世代へ手渡されており、2026年にポートランドで開催された稲門会の会合には、これから語られていくであろうそれぞれの物語を携えて、多くの若い世代が参加していたことを、とても嬉しく思っています。
略歴
ジム・モックフォード(Jim Mockford)氏 はアメリカ国籍で、テクノロジー業界、教育分野、国際交流の渉外業務等、幅広い経歴を持ち、現在は引退しています。1980年代には、ワシントン州日米協会(Japan-America Society of the State of Washington) の事務局長を務め、1990年代には日本語教師として活動し、その後はソフトウェア開発の分野で25年間にわたりキャリアを築きました。その間、中国、日本、米国を結ぶ、国際的なビジネスや協力関係の構築に携わりました。また、ポートランド州立大学日本研究センター(Center for Japanese Studies, Portland State University) の諮問委員会委員や、ノースウェスト・チャイナ・カウンシル(Northwest China Council) の理事長を務めました。作家としても活動しており、アジア・太平洋地域研究、海洋史、児童文学 を主なテーマとして執筆・出版を行っています。







