2011年3月11日に東日本大震災が起こった時、私は日本から遠く離れたフランスにいた。東北地方に家族はなく、ナショナリストでもない私にとっては、地震もそれに伴う津波も、原発事故も全てが「よその国」での出来事だった。当時私は震災の一傍観者として、Fukushimaが「第2のチェルノブイリ」にならないか危機感を募らせるフランスのメディアの態度に、自然災害という出来事が国際社会にもたらす影響の大きさに驚嘆したものだった。東日本大震災は、日本史だけでなく、世界史にも記録される出来事になるだろう。
歴史をひもとけば、国際社会に影響を及ぼす自然災害を他にも見つけることができる。1755年のリスボン地震は、10万人以上の死者を出し、85%の建物が倒壊したと記録されている。カトリックの祭日である11月1日にキリスト教国ポルトガルの首都を襲った惨劇は、神学者、哲学者に衝撃を与えた。その影響は、国境を越えてルソーやヴォルテールなどフランスの啓蒙(けいもう)思想家にまで及んだ。このように、歴史が自然災害を記録するとき、その社会的影響も共に記録されるのである。
2016年4月14日に熊本を襲った大地震は、今後、どのような影響を私たちの世界に与えるのだろう。そして、歴史の中でどのように記録され記憶されるのだろうか。震災後の復興はまだ始まったばかりである。不安と悲しみに耐えながら日々を懸命に生きている人々の姿をどのように記録し、後世に伝えることができるのだろう。こんな風に感じるのは、私が、日本に戻り、もはや震災の一傍観者ではいられなくなったからなのだろうか。
(H.K)
第968回