「変化」の激しい時代にあって、人間そのものを理解することの重要性が増しています。その手だてとして、 圓融寺住職の阿純章さんに、現代人は仏教の教えをどう受け止めるべきなのかを聞きました。
天台宗圓融寺 住職 阿 純章(おか・じゅんしょう)
1969年、東京生まれ。1992年、早稲田大学文学部卒業後、同大学院文学研究科在学中に中国政府奨学金留学生として北京大学に留学。2003年、同研究科博士課程修了。 現在は目黒区にある天台宗圓融寺の住職として坐禅会を中心に社会に開かれたさまざまな活動を行っている。
人は波のように変わりますが、海のように変わらない存在でもあるのです。
853年の草創以来、1100年以上続く寺院に生まれた阿さん。子どものころから仏教に興味があったのですか?
「私は小学校から高校までプロテスタント系の学校に通っていたくらいですから、はじめは仏教に対して特別な興味はありませんでした。また、小学校の高学年にもなると、『坊主丸儲け』『お葬式で飯を食っている』というような周囲の冷ややかな声も気になるようになりました。それで、勝手に『仏教は卑しいもの』と決めつけて意地を張って、寺を継がない理由を見つけるために一生懸命仏教を学びました。すると、嫌いになるどころか逆にどんどん仏教が面白くなっていったんです。中でも“無我”の思想は私をほっとさせてくれました。“無我”とは“自我は存在しない”という仏教の中心にある教えです。今思えば、思春期に入ったころは自意識が強く、かっこ悪いところを人に見せまいと無理をしていたのだと思います」。
今回の『新鐘』は“変化”がテーマです。仏教の教えをどう受け止めて、変化と向き合えばよいでしょうか?
「仏教の視点から変化を考えると“諸行無常”となります。諸行無常とは、世の中に変化しないものなどない、一切が常ならず変わり続けるという考えです。私たちはいつも『このままじゃいけない、変わらなきゃ』となりがちです。しかし変化は起こすのではなく、起こるものだと仏教は捉えます。裏を返せばこの世は“無常”なのだから人生は思い通りになりません。それなのに自分の思うように社会を生きよう、人生をコントロールしようと考えるから、世の中に苦しみが生まれているとも言えるでしょう。そこから仏教の“一切皆苦”という思想が生まれました」。
世の中全ては苦しみでしょうか?
「ここで言う“苦”は思い通りにならないという意味です。“諸行無常”を波に例えて考えるとよく分かります。浜辺に押し寄せる波。それを人間の力が及ばないものと理解できずに、何としてでも止めようとするから苦しくなるのです。でも、ここに多くの人が気付かない大切なことがあります。さざ波かと思えば急に高くなる波にばかり注意が向きがちですが、波を海として見るとどうでしょうか。波は変わっても海は何も変わっていませんね。この海こそが本当の自分で、それは“無我”と“諸行無常”の思想で説明ができます。人間はいろいろな要素が集まってできたもので、形はありますが実体はありません。つまり、『私は私ではない』ということ。だからこそ、変わり続けるのです。このことを、“空”の教えとして仏教では説いています」。
今の大学生たちに知っておいてほしい言葉があれば教えてください。
「“随処作主(ずいしょさくし ゅ)、立処皆真(りっしょかいしん)”という言葉はどうでしょう。この言葉は変わり続けている今の自分を100%認めれば、どんなところに立っていてもそれは真実であるという意味です。何かにチャレンジすることは勇気の要ることですが、主体的に懸命に取り組めば必ず道は開ける。どんなつらい局面も気付けば変わっていますし、正解など求めなくてもいいのです。私たちはこの瞬間も変わっているのですから」。
(『新鐘』No.82掲載記事より)