だいたい、「わたしはセクシュアルマイノリティの味方です」なんて言い切っちゃう人で、ロクな人に出会ったことがないのです。同情の背後にある「上から目線の憐れみ」、隠しきれていません。感じ悪いです。わたしの大事な「マジョリティ側」の友人たちは、そんな善人アピールは一切せず、自分から見える景色とわたしたちマイノリティから見える景色を丁寧に折り合わせようと、ゆっくり、継続的に心を砕いてくれます。
「わたしもセクシュアルマイノリティだから他のセクシュアルマイノリティの気持ちがわかる」とか言い切っちゃう人も、少し信用ならないです。心ない言葉に傷ついた時のあの感覚は、確かに共有できるかもしれない。でも、それぞれの人が抱え込まされている苦しみや痛みの形を知ろうとせず共感に飛びつくのは、結局相手の側から見えている景色を軽視していることほかならないのです。
だから、誰かの味方でいることは、全然簡単じゃない。時間をかけて相手を知り、こちら側から見える景色に自分で揺さぶりをかける…はっきり言って、面倒くさい。他人のことなんてわからない、ってことでもういいじゃないか。そう思ってしまうところも、正直あるかもしれない。
…にもかかわらず、わたしたちはいつだって誰かの味方になろうと思ったり、誰かに味方になってほしいと思ったりするのです、不思議なことに。だからわたしたちは、ゆっくり時間をかけてお互いの味方になっていくでしょう、多分。アライという言葉に込められるべきは、善人アピールでも共感への飛びつきでもなく、そういう未来への予感と、いくばくかの覚悟なのだと思います。
慌てず、でも立ち止まらずにやっていきましょう。きっとうまくいくはずです。結局のところ、わたしたちの味方は、わたしたち以外にいないのですから。
文学学術院専任講師 森山 至貴