僕はこれまで、女性として扱われることに違和感をもって生きてきた。周囲から期待される「あるべき姿」と、自分が望む「ありたい姿」に大きなギャップを感じながらも、他人から傷つけられることを恐れて「女として産まれてしまったのだから仕方ない」と無理やり自分を納得させてきた。ところが大学に入り、ジェンダーや差別を扱う授業を受けるうちに、ありのままの自分を自由に生きている人がたくさんいることを知った。これまで自分は普通と違って変なのではないか、人間として劣っているのではないかと思っていた僕にとって、その力強い姿は輝いて見えた。
僕はいま、幸いにも理解ある家族や友人に囲まれて、とても恵まれた環境にいる。ある友人にカミングアウトしたとき、「どんなお前でもお前はお前だし、俺はお前の友達だ。でもだんなと出会わなかったら、俺はLGBTの世界なんて知らなかっただろうし考えもしなかったと思う。もっといろんな話を聞いてLGBTのこと知りたい。話してくれてありがとう。」と言われたことをよく覚えている。本当の自分を表に出して生きることは、決して傷つくことばかりではないと教えてもらった大切な思い出だ。予備校をサボって出掛けたゲームセンターで出会ったこの彼は、今でも僕の大親友だ。
僕は自称としても他称としても、LGBTやアライという言葉を使わない。自分とまわりにいる人との間柄を「トランスジェンダーである僕とそれを理解してくれるアライの相手」だと特別に意識するより、親は親、友達は友達としてありのままに接しているほうがずっと居心地がいい。だからあえて自分や相手をある属性に縛り付ける必要はないと感じている。LGBTやアライという名前をつけて、ある人々を指し示すことは、多くの人が多様なセクシュアリティをもって生きているという事実を広く発信するための手段としては大きな意味がある思う。しかし僕は誰かと関わるとき、相手のセクシュアリティをあくまでひとつの個性として受け取るし、相手にもそれを期待する。どれだけ外から名前をつけて括られても、僕は僕だという事実に変わりはないし、それはほかの誰にとっても同じことだと思う。自分を表現するときに、あえてトランスジェンダーやカミングアウトという単語を使わなくてもすむ社会が僕の理想とする世の中だ。
文化構想学部3年 だんな